イメージの狩人(Jun. 29, 2022) | 微睡のブログ〜八ヶ岳南麓から〜

微睡のブログ〜八ヶ岳南麓から〜

八ヶ岳南麓、北杜市長坂町小荒間に在住。ときどき仕事をしながら、読書、音楽鑑賞、カメラ撮影、オートバイツーリングなどの趣味を楽しんでいます。

 目を凝らさねば気がつかぬほどごくごく薄い雲が広がっているが、今朝も濃い青の、露草色の空である。庭に出てバラなどを撮影していると日差しは堪え難いほどだ。幸い日陰にはまだ夜の冷気が残っていてさわやかだが、それも朝のうちだけだろう。

 

 

 水上滝太郎「貝殻追放」を2篇読む。モンテーニュかプラトンか、長めのものを読むつもりだったが、風はなく、陽に焼かれる庭の輻射熱でウッドデッキが熱くなることが予想されたので、集中力の維持が難しいと判断した。実際、10時になると耐え難くなり、家内に引っ込んだ。

 火照った体にひんやりした居間が気持ちよい。岩波文庫版のルナール『博物誌』を読む。岸田国士訳で馴染んでいたが、さすがに新訳の方が読みやすく、樹木や草花の訳も正確なようだ。岸田訳で首を傾げたところも、注釈もあって、疑問が解けた。

 

 影像(すがた)の猟人(かりうど)

 朝早くとび起きて、頭はすがすがしく、気持は澄み、からだも夏の衣裳のように軽やかな時にだけ、彼は出かける。別に食い物などは持って行かない。みちみち、新鮮な空気を飲み、健康な香を鼻いっぱいに吸いこむ。猟具も家へ置いて行く。彼はただしっかり眼をあけていさえすればいいのだ。その眼が網の代りになり、そいつにいろいろなものの影像がひとりでに引っかかって来る。(岸田国士訳、青空文庫)

 

 物の姿(イマージュ)の狩人

 彼は、朝早くベッドからとびおきて出かける。頭がはっきりしていて、気持ちが清らかで、からだが夏の着物みたいにかろやかなときだけだが。べつに食べ物などは用意していかない。道々すがすがしい空気を飲みこみ、鼻を鳴らして健康なかおりを吸いこむ。猟の道具は家に置いたまま、ただ目をあけてさえいればいいのだ。目が網の代わりになって、物の姿がひとりでにひっかかってくる。(辻昶訳、岩波文庫)

 

 二つの訳を並べたが、比較はしても、優劣をつけるつもりはない。好き嫌いもない。岸田訳の彫刻刀で彫ったようなごつごつした感じもよいし、辻訳のなめらかなペンで書いたような訳もよい。比較する意志なく、両方をくり返し読んでいるうちに、あるところは岸田訳が記憶に残り、またあるところは辻訳がということがあるだろう。それでよい。ところで「イマージュの狩人」の「イマージュ」だが、フランス語でも、英語の「イメージ」でも、日本語のイメージは頭の中に浮かぶ影像だが、具体的な物の形・姿の意味だと思う。さもなければ『博物誌』という作品が成り立たないわけである。

 『博物誌』を読んでいたが、居間が気持ちよかったのでいつの間にか眠ってしまった。ご飯よ! という声で目覚めたときには、1時間ほど眠っていたらしい。

 

 

 午後になると居間にも熱気がこもってきた。標高950mの高原でも風がとまれば暑い。サーキュレーターを回す。しかし首振り機能がないのでフェルト製作を続けるK子に風を向ける。読書も何も諦めて昼寝することにした。午前中も寝たので眠れないかと思ったがさにあらずであった。

 

 

 5時を過ぎると風が出て涼しくなった。K子が液体濃縮コーヒーとバニラアイスでコーヒーフロートを作ってくれる。K子は庭に水撒きをはじめ、ぼくはプラトンの『国家』第5巻を読む。ソクラテスは理想国家について語るが、それが共産国家的国家になるのは論理の必然であり、ソクラテスを批判するには当たるまい。実現が不可能だから理想国家なのであり、人が理想国家を求めるのは現実の国家が理想から遠いからだ。むしろ善き国家、善き指導者、善き国民へと論理を詰めてゆく過程で現実の不備が明らかになるのではないか。今のところこのくらいしかわからない。わかっていないのかも知れない。暗くなるまで読んでいた。

 

 

 夕食後いじめ問題を正面切って取り上げた香港映画『少年の君』を見る。この種の映画は後味が悪いしあまり観ようとは思わないのだが、一つの映画として優れていた。しかし中国の大学受験は凄まじいな。K子が中国に生まれなくてよかったというのにうなずく。