誕生日の朝は明るい曇りことがあるだろうというのではなく、今日一日を明るく穏やかな気持ちではじめられることが嬉しいのである。
こんな朝に聴くのはヴァシュティ・バニアンのアルバムJust Another Diamond Dayだ。今朝はダイヤモンドの煌めきこそないが、あるいはダイヤモンドは4月の誕生石だから春4月の朝の歌なのかもしれないが、また別のダイヤモンドのような一日がはじまったのである。
バニアンを流しながらモンテーニュ『エセー』(宮下志郎訳、白水社)第3巻第9章「空しさについて」を読む。長く、とりとめのない章だ。しかしモンテーニュはそのようにしてしか己を語りえなかったのだろう。
わが『エセー』が最初に出版されたのは一五八〇年なのだが、それからわたしは何歳も年をとった。でも、少しでも賢くなったかといえば、それは疑わしい。今のわたしと、少し前のわたしは、たしかに二つの存在である。しかし、どちらのわたしのほうが優れていたかとなると、なんともいいようがないのである。もしも人間が、もっぱら良い方向に向かって進むのならば、年を重ねることはすばらしいことだろう。だが、それは千鳥足で、ふらついた、さまにならない、酔っぱらいのような動きなのである。あるいは、こうもいえる。風に吹かれるまま、lあてどもなくそよぐ葦のような動きなのだと。
ここには晩年になりますます磨きのかかったモンテーニュ真直さがある。モンテーニュに倣っていえば、誕生日を迎えまた一つ年取ったぼくもまた「少しでも賢くなったかといえば、それは疑わしい」と思う。
9章を半分読んだところで昼食の時間になった。
長坂駅前の図書館に文学講座のチラシを託し、1時15分の甲府行きに乗る。中里恒子「墓地の春」を読む。
甲府も曇天。湿気は多かったがさほど不快ではなかった。
誕生日のプレゼントではないだろうが、U女史からトウモロコシ2本、アメリカ人のミスターMからアマランサスの葉を頂戴した。
小雨が降る中、傘もささず、甲府駅から最も近い和菓子屋まで歩き、みたらし団子と柏餅を買う。誕生日なのでケーキを買おうかといったらK子が和菓子がいいといったので。
帰途は石川淳「焼跡のイエス」を読む。
買物をして7時近くに帰宅。オートミールで簡単な夕食をすませ、8時半K子を公文に迎えに行く。K子に夕食を作ってやり、食後緑茶をいれてみたらし団子と柏餅を食べる。閉店間際の店で残り2本のみたらし団子を買ってきたが、さすがに少し固くなっていた。