雲が多く、青空はわずかしか見えない。陽が翳っているのでちと寒い。しかし、予想通り雲たちはゆっくり東へと移動して、ぽかぽか陽がさしてきた。
朝食はウッドデッキで食べ、そのまま読書する。宮沢賢治の「花壇工作」を皮切りに、青空文庫でタイトルに「蛙」を含む作品を検索して、
林芙美子「蛙」
知里真志保「学問のある蛙の話」
寺田寅彦「蛙の鳴声」
芥川龍之介「蛙」
佐藤垢石「蛙を食う岩魚」
宮沢賢治「蛙のゴム靴」
村山籌子「犬さんと、くもさんと、かえるさん」
新美南吉「二ひきの蛙」
夢野久作「蛇と蛙」
の9編を読む。どれも面白かったが、とりわけ知里真志保が興味深かった。アイヌでは「桃太郎」の桃は上流から流れてくるのではなく、下流からくるという。なぜか。その言語学的に解明しているが、なるほどと思った。学問のある人でも蛙になってしまう、いわんや無学の者をや。
井伏鱒二の釣の師匠で、釣の随筆で知られる佐藤垢石が書いている鉤は使わず、蛙の足を道糸で結んで滝壺に放り込み、岩魚が蛙を飲み込んだところで釣り上げる話は、聞き伝えのようだが、いかにも岩魚の貪食さを伝えていて面白い。しかし、それにしても各地の渓流をよく知っているが、今ではもう多くの渓流が荒らされ荒廃しているのではないだろうか。
林芙美子の「蛙」は赤い鳥に発表したもののようだ。生活費を稼ぐために書いたのだろう。しかし林芙美子は林芙美子である。人生の深みに到達している。
芥川の「蛙」は掌編だが、見事な諷刺作品。
寺田寅彦の2ページほどの文はある日の先生、漱石の姿をとらえている。漱石が変わってしまう前の姿を。
賢治の「蛙のゴミ靴」はめずらしく(?)嫉妬心や羨望がむき出しになっていた。
昼食まで時間があったのでモンテーニュ『エセー』第3部第3章「三つの交際について」を読む。繰り返し読むべき含蓄のある章だ。とりあえずモンテーニュが引用しているプルタルコスの言葉がぼくの考え気持ちを代弁してくれた。「友情とは相棒を求める動物であって、群れを好む動物ではないl」群れることが友情だと誤解している人は若者を中心に多くないか。
往気の通勤の車中ではヴォルテールの2編のコント「メムノン または人間の知恵」と「スカルマンタドの旅物語 彼自身による手稿」を読む。ヴォルテールのコントの主人公は、代表作「カンディードまたは最善説」を読むのはこれからだが、みな無垢であるという点で共通しているようだ。無垢ゆえに酷い目に遭わされ、無垢ゆえに救われる。
甲府は陽射しは強かったが、室内や木陰は涼しかった。しかし、90分間ほど仕事をしただけだがやけに 疲れた。
帰途の車中では「カンディード」は読めそうにないので、軽い読物として海野十三「振動魔」を選んだ。いかにも時代を感じる古臭いミステリーだった。
長坂駅前の図書館で来月の文学講座のチラシの展示を依頼。
オートミールと納豆で夕食をすませ、8時半公文で採点などのアルバイトをしているK子を迎えに行く。車にのりこむと、続くかしら、使用期間が終わったら断られるかも、という。大変なようだ。明日は一緒にランチするようだ。