目が覚めると、枕元のiPadから岡本綺堂の青蛙堂綺談を朗読する女性の声が聞こえてきた。前夜ベッドに入ると、いつものように、タイマーを90分にセットして、YouTubeの朗読を流したのだが(何を流したか思い出せない、いずれにせよ、10分もすれば眠ってしまう)、タイマーがセットされていなかったようだ。
綺堂の読み覚えのある話を聞きながらうつらうつらしていた。眠ると夢を見た。健康診断に行かなければならないと車で走っている。しかし会場はどこなのかわからず、ただ今日がその日だということだけはわかっていた。夢がリアルなので、何か大切なことを忘れているのではないか。それがひどく気にかかり、目が覚めると、寝ぼけ眼でiPadのカレンダーを開いてチェックする。今日の予定に入っているのは午後の甲府での仕事だけだ。若侍が大蛇か竜か怪異に出会う話が続いている。また眠ってしまうと、同じ夢を見る。やはり何か大事なことを忘れていないかと不安になり、寝ぼけ眼でiPadをチェック。若者は鱗を拾う。竜の鱗ならば天下をとれるほどの大出世も。夢だとわかっていながら確認をやめられない・・・・・・。最後若者は巨大旋風にさらわれたのか姿を消す。
それやこれやでめずらしく7時に起床。快晴。気温は10度。風が冷たいのは夜半激しく降った雨のせいだろう。光は澄んでいる。
9時40分、K子はアルバイトの面接へ行く。わが家から車で数分のところにあるイチゴ農家である。季節労働者になるという。出かける前に先日買った草花を植える場所を相談して、彼女が出かけてから植えた。トマトの脇芽をつむ。栄養を奪われるからつむように近所の人に教えてもらったが、脇芽を見つけつむのには変な快感がある。
モンテーニュ『エセー』(宮下志郎訳、白水社)第3部第2章「後悔について」を読む。ここでモンテーニュは率直に己を語っている。「わたしは、わが身体という草がはえ、花が咲き、実がなるのを見てきたし、そして今、それが枯れるのに立ち会っている。しあわせなことだ。なぜなら、それが自然のなりゆきであったのだから」
落下して壊れたレンズの修理見積もりが出たとカメラ店から連絡がある。6万円近くかかるという。痛い、ほんとうに痛い。もう少し注意深く慎重に扱うんだったと後悔したが先にたたず。修理するかどうかは、少し考えさせてくださいと、保留した。しかし、同じレンズを新品で買ったらいくらになるか教えてもらってから決めたほうがよいと思いカメラ店に問い合わせた。結果、新品は13万円、10年以上あるときは毎日持ち歩いていたし、そろそろオーバーホールが必要だったこともあり、6万円円からオーバーホール代を引けば修理代はさほどでもない、などと貧乏人は出費するにあたってつまらない理屈を考える。そのことを自虐的に楽しんでいる。
しかし貧しいのか。以前よりも貧しくなったことは確かだが貧しいのだろうか。貧乏暇なしではなく貧乏暇あり状態は貧乏であっても貧乏とはいえない。ウッドデッキで陽光をあびながら、庭の草花を愛でながら、好きな音楽を流しながら『エセー』が読めるんだから。
午後1時15分の電車で甲府へ。車中ではヴォルテール「ザディーグまたは運命 東洋の物語」を読む。見目麗しく徳高く、すべてを善意で行う青年ザディーグは、しかしすべてが裏目に出て次々と不幸に襲われる。サドの「美徳の不幸」かと思われた。帰途の電車でも読み続け、夕食、夕食後の居眠りの後も読み続けて、午前0時45分読了。ハッピーエンドで終わってよかった。ヴォルテールはやはり人間に対して相当の皮肉屋で、諷刺がきいている。