釜石で元気を貰った話 | 駱駝の蘇州便利手帳

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オシャレやグルメは載せてませんw 情報の過信☆厳禁!!

今年の夏の帰省は

アデノにやられっぱなしで(--;)


ナニもできませんでしたので

旅行記はかけませーんww


かわりに、昨年の夏の話をどぞー




行こうと思ったきっかけはコレ↓



東北の震災地に「ポケモン電車」走るというので

乗りにいったんですけどね


最終駅は、釜石駅でした。

七夕飾りが、愛知の一宮とはチョット違うのぉ~


駅前には「鎮魂の鐘」


「 鎮魂」「復興」「希望」「記憶」のことばが刻まれています。


毎年震災の日には、朝6時~午後4時までに

鎮魂の鐘を鳴らし続けるんだそうです。


その数、18,524回 (-人-)安らかに~





ポケモン電車の往路にも乗るために、

慌ただしくタクシーで30分少々の災害地見学をしました。



まだ娘には実感わかないカモですが。

私の脳裏には、流される家や車の映像が再現されます。




街には「見た事のある」建物があり

草の生えた空き地が多い街並みで。


ときどき、TVで紹介される港内のビルには

「ここまで津波が来た」というブルーのラインが。


市街地を抜けた先に、静かな水面の港がありました。


当時は、ココや女川など、港町には中国人が大勢、

水産加工会社で「研修生」として働いていたそうです。



その家族が、震災からの数日間

必死に情報を求めていました。


過去の大地震後に外国人が虐殺された歴史を

彼らは知っているのです。


「地震で助かっても、殺されるのではないか」

それが杞憂だと知るすべもありませんでした。


なぜなら、金盾が情報を遮断していたからです。

なんとか状況を打開しようと、必死だったのでしょう。


遮断されたネットをくぐり、

日本人で中国語の判りそうな方の

ブログや掲示板などに、尋ね人の情報が何百と届きました。



そんな状況を理解した日本側では

避難所からツイートで上がってくる避難所の名簿写真を頼りに

外国人らしき名前を手分けして探しました。


最初は日本人が4-5人で。

最終的には日中韓の数十名で。


ハンドルネームしか知らない「他人」ですが

行方不明者発見のおりには喜び合っての作業でした。




結局、4日間で、私が見つけた中国籍の方は24人。

大使館へ詳細情報を連絡し、

翌日には救援バスが向かったとのメールがありました。


そのまま新潟へ。


到着後、スグに中国へ帰国したそうですが

彼・彼女達は、今ごろ、どんな人生を送っているのでしょうか?

研修生の死者行方不明者は、ホントにゼロだったのでしょうか?


知るすべもありませんが。

どうか、助かった命を大切に~(-人-)




さて、そろそろポケモン電車の出発です。


釜石駅に戻ると、七夕飾りが目にとまりました。


その横に、仮設住宅に住んでいる方々の

絵手紙の展示が、私の心に深く響きました。



いま考えると、今後の私に必要だったから

この地に、呼ばれたのかな~?



この絵手紙の写真は、

駱駝の心が辛くなった時に

なんとも言えない、元気をくれます(^-^)


大丈夫。

ダイジョウブ。

そのうち、なんとかなるさぁ、と言われてるようで・・・。


釜石の皆さま、ありがと~。



ここから下は、画像のみですが。

お時間あったら、じっくり読んでいって下さい。