駱駝の蘇州便利手帳

駱駝の蘇州便利手帳

江蘇省蘇州市周辺に特化した情報をお伝えしてます。
オシャレやグルメは載せてませんw 情報の過信☆厳禁!!

これわ江蘇省蘇州市の生活情報に特化した個人ブログだよー。検証甘いんで精度は微妙。随時ツッコミ・フォローお待ちしておりますw

前編のつづきですヾ(´▽`)ノ

 

 

 

寺を移築したところが

何の因果か

 

民間伝承によれば

元は周瑜の屋敷のある場所だったと

・・・・言われています。

 

 

はっ?周瑜だって?Σ(・ω・ノ)ノ

 

 

みんな大好き三国志演義w

 

 

 

■蘇州と周瑜

--------------------------------------------

孫堅(孫権の父で、歴オタ別称堅パパ)が

反董卓の合従軍に参加した折

彼の息子の名声を聞いた周瑜は

孫策(孫権の兄)に面会を申し出たことで

孫一族とのつながりが生まれました

 

周瑜は寿春まで出向き、孫策に会って意気投合し

家族同然の付き合いをするようになります

 

192年、襄陽の戦いで

孫堅(享年37歳)が戦死し

孫堅パパに従っていた周瑜は

彼の死後も袁術軍にいましたが

長男の孫策(19)が後を継いで

袁術のもとから独立を果たし

江東の支配を宣言したころ

周瑜は孫策の元へ

 

体格に恵まれ、武将としての風格が漂う

周瑜将軍を、孫策はことさらに歓迎します

 

孫策は、周瑜との強い絆を保つため

199年に皖城を陥落させた際に

とらえた捕虜400名の中に居た

美姫と名高い橋姉妹を分け合い

 

孫策は姉の大橋を、周瑜は妹の小橋を

それぞれ娶り(妻の一人)ました

 

孫策は

「橋公のふたりの娘は

 故郷を失うことになったわけだが

 われわれ程の婿を得て満足だろうよ」

との言葉を残したとされています

 

周瑜は、孫策に城下の一等地に家と、

兵士2000人・騎馬50の軍を与えられ

嫁小橋との関係も良好で

順風満帆とも思われましたが

 

200年5月5日

曹操軍の討伐に出た孫策(27)が

刺客の矢に倒れます

重傷を負い、死を前に

孫策は自分の幼い子ではなく

弟に王座を譲ると遺言を残します

 

200年、家督を継いだ弟の孫権(19)は

はじめは食客や家臣らに軽視されますが

周瑜が孫策の葬儀後もそのまま呉に残り

率先して臣下の礼を尽くしたため

事態は沈静化しました

孫権を多くの場面でサポートし

孫権の治世を支えました

 

孫権と周瑜は、

曹操軍との戦いに明け暮れることになります

 

そして世に名高い【赤壁の戦い】がおこり

周瑜・劉備・諸葛亮公明などと共に

圧倒的劣勢を覆して

曹操軍に大勝することとなります

 

【三国志義勇】は史実に

フィクションを織り交ぜた物語ですが

小説や映画・ドラマで大人気ですよね!

赤壁の戦いはストーリー中の

クライマックスでもあります

歴史のお勉強が苦手でも

レッドクリフとか見やすい作品も

結構あるので、是非!ヾ(´▽`)ノ

 

※三国志正史では大橋、小橋

※三国志演義では大喬、小喬

------------------------------------------

 

英雄の人生を全部語ると

長くなるのでこの辺でw

 

 

重要部分に赤マーカー引きましたが

小橋と住んだ屋敷が

蘇州旧市街地のどっかにあった

ということで

 

それが民間伝承では

城隍庙を周瑜の屋敷跡に建てた

という事になっている訳です

 

 

 

 

 

どこー?

痕跡でもいい、周瑜どこー?

(‘ω’)三(ε: )三(.ω.)三( :3 )三(‘ω’)

 

 

正直に言って

どこにも痕跡がありません!

 

しかも長年、政府や歴史家などが

「根拠がない」

と否定しているんですよね

 

やだぁ。

歴史ロマンがぁぁぁぁ_(:3」∠)_

 

 

 

 

でも、歴代の郷土史の研究者たちが

集めた市井の伝承によれば

 

現在と同じ南側の馬路(まーるー)に

表玄関のある大門があったそうです

 

周瑜は、孫権に引き立てまくられてて

殆ど家にいませんでした

 

そして門の横の部屋には

常時、明かりが灯り

よく奥さんの小橋(義勇では小喬)が

長い時間、馬車が戻ってこないかと

聞き耳を立てて過ごしていたそうです

 

他にも、戦地の方角にむけて

祈祷をささげ、周瑜の無事を祈ったとか

書物では描かれない

そんな話が残されています

 

また、周瑜の屋敷は

橋姉妹の実家の近くにあった為

よく橋公の屋敷まで

歩いて向うこともあったそうです

 

 

この時代に歩き!?

とも思いましたが

スープの冷めない距離というか

徒歩3分やん!

 

屋敷は大きな交差点のところ

と聞いていたので

MAPにオレンジ色の

星マーク付けときましたw

 

推測の根拠は

周瑜の屋敷からほど近く

喬の名前が道に残っているから!

 

乔司空巷(喬司空巷)

 

司空=官職名なので

『喬司空横丁』

・・・ってニュアンスかな?


でも、残念ながら

やっぱり見た目には

全く痕跡は残ってないのよね!

 

 

 

お寺を後にして、观前街で

お昼を食べようかなと3人で移動

 

・・・・!?

 

あれ?

譚さんどこいくのー?

突如、バス通りを外れて左折!

 

誘われるように住宅地へ(((((・・)

 

私から見たら

ナニも代り映えしない街並みですが

なにか気になることがあるようです

 

 

 

行き止まりかな?

いや、社区って書いてあるね

 

待って!?

この先に行くの??

入っちゃっていいのー???

 

門の【雍熙寺弄】という地名に

めっちゃ喰いついてますwww

お偉いさんに関わる文字らしいです

 

角を曲がると白い壁が続き

 

そこにあったのは察院場社区でした

 

辺りをキョロキョロしつつ

落ち着かない譚さん

なぜか中をしきりに気にしています

 

丁度、鍋持った人が出て来たので

「入っていいですか?」と訊ね

ついでにと、立ち話を始めちゃいました

 

戸惑いつつも見守っていると・・・

 

もう一人の同行者

歴史探訪リーダー様が

周瑜故居の文字発見!

 

 

まーじーでーすーかーΣ(・ω・ノ)ノ

 

 

譚さんが、おいでおいでするので

恐る恐る足を踏み入れてみたw

 

中に入ると

こぢゃれたお庭があり

 

でも、まだまだ半信半疑で

周囲を見渡すと・・・・

ここにも周瑜故居の文字・・・・

 

あら、ここにも~Σ(・ω・)

かつてはこの建物も

城隍庙の一角だったみたい

 

 

 

さらに建物の隙間に入っていくと

 

政府公認の印がありました!

 

 

 

まーじーでーすーかーΣ(・ω・ノ)ノ

 

 

2024年1月に、正式に検証が認められ

周瑜の居住跡地と認定されたんですね!!

 

コレ、取り付けられたの

ワリと最近やん!(`・ω・´)すげー

 

 

周瑜のおうち

まだ残ってた件!!

 

 

すっげー(*n’∀’)n 

 

 

認定された建物は

本当に小さな範囲ですけど

 

そのうち1棟が

見学できるようになっており

 

認定に至った説明とか

決め手となった古書の記述とか

 

建築様式も詳細に記録を残し

 

やっと検証が終わったので

改装して公開したんだよー

というのが、伝わってきました

 

 

 

しかし。。。。。

 

 

 

ある意味とても重要な

観光資源なのに

 

なぜ蘇州市は、社区という

近隣の集会場

使うのだろう???

 

 

をいをいをいをい!

 

 

周瑜と小橋だぞぉ?

 

観光産業、下手かっ?!( ▽|||)

 

 

 

なんかもう。。。

 

突っ込みどころ満載 ((@゚´∀`)ノ彡爆笑

 

 

 

社区は、誰でも入って良い場所なので

直に見たい方は、どうぞ探しに行ってみて!

 

 

 

 

ってことわぁ。。。。

 

 

あ♪

気づいちゃった!

気づいちゃった!

わーい♪ わいっ♪

 

 

周瑜のお屋敷って

もっと広大だったそうなので

 

もしかしたらこんな風に

小橋の実家が、大通り挟んで

真向かいだった可能性!!( ´艸`)

歩いて実家へっての

あんがい実話だったり?w

 

 

あとね

大喬・小喬で気になるのは

 

物語では孫策が大橋について

長年連れ添ったようなセリフ言いますけど

正史で見たら、娶ってから実質4か月やん?

孫策の死後は大橋さんの行方が

歴史の表舞台から完全に消えてるけど

 

民間の伝承によれば

孫策の戦死の報の後

内向きの勤め人に暇を出して

大橋さんは長江に身投げしたとか

実家に戻る途中で行方不明になったとか

いろいろ言われていますが

駱駝的には、実家に帰ってて欲しいなぁ

 

だって、ある意味、拉致られてすぐ

問答無用に娶られて

4か月で未亡人って可哀想すぎるよね

その点、似たような経緯とはいえ

妹はわりと仲良くできてたなら

周瑜さんの人徳なのかもですね。

 

スンマセン(*ノωノ)

そんな風に思ってた時期がありました

 

 

 

近年の研究によれば

 

二喬の父親は

袁術配下の武将であった

橋蕤であるとされていて

彼は曹操軍との戦いで戦死しています

 

だから、袁妻と橋一家が

同じ皖城に避難していて

孫策に制圧された際に捕虜となった

400名の中に居たのではないか?

 

さらに、橋蕤が生前に

孫策を尊敬するような発言をしていた為

二人の娘も嫁ぐことに不安も少なく

それゆえの「橋公の娘たちは・・・」

のセリフが出てくるのかも知れませんね^^

 

 

 

 

 

 

知れば知るほど

掘り下げれば下げるほど

 

歴史妄想に沼る

 

 

たとえドローカルすぎて!

誰からも需要が無くても!!

 

ひさしぶりに

駱駝ワールドを展開出来て

ちょっと悦w

 

 

 

 

 

あぁ、まだ今年の話もあるのに

まだまだ昨年の話が続きますwwww

 

お暇でしたら

続きも読んでってねー(* ̄▽ ̄)

 

でわでわw

 

 

 

■蘇州里帰り記事(2025年)

久しぶりの蘇州で遊ぶ ①无界美罗

久しぶりの蘇州で遊ぶ ②城隍庙の前編 -春申君-

久しぶりの蘇州で遊ぶ ②城隍庙の後編 -周瑜と小喬-

 

 

 

 

追記:この後は

观前街で蘇州麺を食べましたw

 

相変わらず、やっす(⑅๑╹ڡ╹)