先日、蹴烈伝説を書きました。
熊本県北部の山鹿市、菊池市辺りは古代(弥生時代前半)、茂賀ノ浦という広大な湖があったようなのですが、当時の阿蘇大明神が湖の壁を蹴破り、水を流して広大な耕作地を用意した、というものです。
このような蹴烈伝説は、日本全国に幾つか残っています。
縄文時代から弥生時代に移行したのは、実は地球上に大きな変化があったから移行せざるを得なかったはずなのです。
狩猟文明から農耕文明に変わるには、狭い日本列島で広大な耕作地を開拓することは容易ではなかったはずです。そこで、各地の湖の水を抜くことで耕作地にして国造りをしたのが、弥生時代前半のようです。
そこで実際に湖を開拓するために、神がかり的に湖の壁が蹴破ぶられた事件が蹴烈伝説です。現代人はとても信じられないでしょうが、たった2000年くらい前でも普通の人間を超越した神がかり的な人がいたようです。
今回は、この蹴烈伝説の中でも、阿蘇と並ぶ二大伝説の一つである甲府盆地についてご紹介します。
甲府盆地は、国内最大級の盆地であり、周辺は富士山、南アルプス、八ヶ岳、秩父山地に囲まれていて、唯一盆地が切れた場所が釜無川と笛吹川が合流して富士川となる市川大門付近になります。
甲府盆地は、現在ではブドウやモモ、サクランボ等、果物の栽培が盛んになっていて、日本ワインの産地でもあります。まさに農産物の宝庫となっています。
甲府盆地には、かつては湖だったという湖水伝説が幾つも存在しています。
湖水伝説の痕跡を残しているのが、複数の神社です。これら神社を参拝してきました。
まずは、市川大門付近にあるその名も蹴烈神社です。詳細な由緒は残されていないのですが、天手力雄命を祭神にした神社のようで、素晴らしい神気を放っていました。
由緒が不詳なのは、甲府盆地がかつて湖だったことを隠したい存在が意図的に行ったことだと考えています。
次に、甲府盆地東側の笛吹市にある佐久神社です。「佐久」とは「裂ける」に通じるのでしょうか。
こちらの神社にはきちんと由緒が書かれています。祭神は岩烈神、根烈神、天手力雄命の三柱となっています。社記には「昔一面に湖水状だったこの地を、 岩裂、根裂の両神が水を落として田や畑を興した ので、雄略天皇の時、当時開闢の祖神として現在 地にまつり佐久神社と称した。」とあるようです。
由緒板
本殿
まさしく湖の水を抜いて甲府盆地を開拓したことが書かれています。
ただし、時期的には弥生時代ではなく、もっと古い神代のように感じます。
次に同じ名の佐久神社が、笛吹市の佐久神社の南西方向、甲府市下向山にもあります。
こちらの祭神は、建御名方神、菊理姫神、向山土本毘古王(むこうやまとほひこおう)となっています。
建御名方神、菊理姫神は、弥生時代よりも遠い昔の神代に存在した神です。
ところが、向山土本毘古王は、第二代綏靖天皇時代の大臣とされていています。紀元前561年に甲斐の国に入国し、当時甲府盆地の中央部分は一面の湖水だったところを、六度仙人と協力して、甲府盆地南方の鰍沢を開削し、湖水を富士川に落して多くの平地を得、住民の安住の地を確保した、と書かれています。
紀元前561年というのは、第二代綏靖天皇の時代ですからまさしく弥生時代が始まった時期と合致します。向山土本毘古王が甲府盆地の開拓の祖と言えるでしょう。
しかしながら、前述の蹴烈神社や笛吹市の佐久神社には、何故、向山土本毘古王が祀られず天手力雄命や岩烈神、根烈神という神代の神々しか祀られていないのでしょうか?
それは、次のように推測されます。
甲府盆地が湖であり、開削されたのは1度ではなく2度あるのではないか、ということです。
どういうことかと言いますと、弥生時代紀元前561年に向山土本毘古王が開削する前は甲府盆地が湖だったのですが、それよりもずっと古い神代の時代、甲府盆地が湖⇒開削⇒盆地という過程があったのではないか、ということです。
つまり、湖だった甲府盆地の開削は、神代と弥生時代の2回行われたということを表しているのではないか、ということです。
地球に大変動が起きたのは、日月神示に「世は七度の大変りと知らしてあろう」(黄金の巻第二十六帖)と書かれていることから、過去6回起きたと考えられます。
大変動というのは、人間(神)の天に背いた行いにより、地球文明がその都度リセットされ泥海になった、ということです。これが過去6回なのです。
従って、リセットされるごとに地球の地理は、大変動を繰り返していたはずなので、大変動によって甲府盆地が湖になったことが二度あっても全くおかしくないのです。歴史は繰り返すはここから来ています。
いずれにしても、甲府盆地はかつて湖であり、神が意図的に水を抜いて耕作地にしたのです。その直近が約2500年前ということになります。
最後まで読んでいただきありがとうございます。