<信長の真実>
織田信長は、1560年代に熊襲の成り済ましにあい、立場を偽物に乗っ取られてしまいます。立場を乗っ取られた信長は、浅井長政にすり替わり、1573年に自害したと見せかけて、さらに豊臣秀吉にすり替わったのです。
今回は、その秀吉について、新たに分かったことをご紹介します。
秀吉の最初の名前は、木下藤五郎であり、身分の低い足軽から出発しました。
1554年頃から織田信長(本物)に小者として仕え初め、その後、頭角を現し、次第に出世していきます。
1565年には木下藤吉郎秀吉に改名します。
1568年の観音寺城の戦いの際には、明智光秀、丹羽長秀らと並び、信長軍の主力として功績をあげています。
<WIKI:豊臣秀吉>
織田信長は、1560年代に熊襲によって立場を乗っ取られてしまったと推測しています。
1573年、偽信長によって浅井長政(本物の信長)が滅亡させられると、木下秀吉は偽信長によって、浅井氏の後を受けて北近江の長浜城主に抜擢されます。
そして、盟友である丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつもらい羽柴秀吉と改名します。
実は、この時に、浅井長政(本物の信長)が、木下秀吉にすり替わったのです。木下秀吉を羽柴秀吉と改名したのがその証拠です。最初の木下秀吉は、信長が熊襲に変わった後も、偽信長の側近にいて間者(スパイ活動)をしていたのです。その木下秀吉にすり替わったのです。
滋賀県長浜市の豊国神社このように、戦国時代など歴史の重要人物が改名する時は、人物のすり替わりや、逆に熊襲による成り済ましで、人物が変わったことが多いのです。明治維新で活躍した主要メンバーも多くがそうです。
(例)西郷吉之助⇒西郷隆盛(天の采配)
桂小五郎⇒木戸孝允(熊襲の成り済まし)
<すり替わりの真実(幕末維新⑤)>
その結果、浅井長政は、羽柴秀吉となって引き続き北近江を治めることができたのです。
その後も熊襲の偽信長は、天下を取るために強引な手法で勢力を増していきますが、信長の家臣とされている丹羽長秀や柴田勝家、木下秀吉は、乗っ取られた本物の信長である浅井長政と通じ合って、暗にストップ・ザ・偽信長を行っていたのです。
また、反信長であった上杉謙信や武田信玄も、お互いが領地の奪い合いのために戦っているように見えて、実は裏で浅井長政(羽柴秀吉)と繋がっており、偽信長包囲網を徐々に敷いていたのです。五次に渡る川中島の戦いは、謙信と信玄の演技だったのです。だから、いつまでも決着がつかないのです。
1573年以降、長浜城主羽柴秀吉が誕生してからは、秀吉が司令塔となって熊襲の偽信長を止め、戦国時代の統一させようと作戦を練りだしたのです。
秀吉は、徐々に力を蓄えて行きます。偽信長と拝謁する際は、顔が割れないように元の木下秀吉が行い、反偽信長勢力に指令を送る際は信長⇒浅井長政⇒羽柴秀吉となった秀吉(本物の信長)が行っていたはずです。昔はメディアがなかったから、すり替わりが可能なのです。それは熊襲の成り済ましも同じことです。
また、秀吉は、人材育成・登用を積極的に行っていきます。長浜の地で石田三成を登用し、幼少の加藤清正を育成していきます。
そして、とうとう、偽信長打倒の日がやってきます。それが、1582年の本能寺の変だったのです。
<「本能寺の変」の真実>
秀吉連合は、偽信長を本能寺の茶会で討つ作戦を、表向きは偽信長家臣である明智光秀と滝川一益の二人を中心に検討していたのです。
しかし、熊襲もただでは終わりません。この情報が、当時、偽信長の家臣だった同僚の熊襲徳川家康に漏れてしまったのです。
徳川家康は本能寺の変を自らが天下を取るためのチャンスととらえます。主君である信長が討たれれば、次は自分が天下を取るチャンスだと考えたのです。同じ熊襲の魂を持つ偽信長と偽家康ですが、熊襲に真の仲間はあり得ません。熊襲は自分がトップに立つことが重要なのです。
そこで、明智光秀が本能寺の変によって偽信長暗殺を行う直前に、家康は、家臣を使って偽信長を討ったのです。
そして、明智光秀に、信長暗殺のすべての罪をなすりつけたのです。
この時、秀吉自身にも悪の手が入り込んでおり、熊襲による偽秀吉が存在していたのです。
秀吉には、元の本人、天下取りを目指した信長-長政がすり替わった秀吉、そして熊襲が成り済ました秀吉が複雑にからみあっていたのです。
しかし、本能寺の変の後、熊襲の家康を押さえて、信長-長政がすり替わった本家羽柴秀吉が天下を取ることに成功するのです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。