すり替わりの真実(幕末維新⑤) | 知っとうや(真実を求めて?!)

知っとうや(真実を求めて?!)

⚡2900年続いた人類中心文明は、近い将来、五六七(弥勒)時代となり、本来あるべき姿に戻ります。それまでは産みの苦しみが続きますが、見事に成就して欲しいものです。⚡

先週の北海道でのモヤの騒ぎ。とうとう霞が騒ぎ出されましたね。

「シベリアの森林火災の影響か?」とか報道されていましたが、そんな訳ありません。です。

地球は本格的に変わりだしてきましたよ。楽しみです。

また、今年も猛暑ですが、昨年までにような不快感は感じないのではないでしょうか?

特に朝方。熱帯夜だったとしても、外の空気は意外と気持ちよくないですか?

これが、波動の変化なのです。

邪気に覆われていると、波動が低い上に熱がこもりやすい(保温効果)ので、ヒートアイランド現象が活発化し、ゲリラ豪雨となりやすいのです。まだ都心の一部では結界が張られたままで波動が低い地点があり、居心地が悪い場所はありますが、昨年よりは間違いなく過ごしやすくなっているはずです。

<暦と季節と波動>

近年、二酸化炭素排出により地球温暖化が叫ばれていましたが、それは波動が低い状態だから問題だったのであって、今後は波動上昇とともに温暖化は解決されていきます。

どんなに二酸化炭素が排出されようと、高波動によって浄化されるのです。これまで人類がどれほどまでに科学という名の下で洗脳されていたのか、身に染みて理解できるようになっていきます。

多くの方には信じられないことでしょうが、気候や自然現象を見ていてください。全ては波動が解決するのです。

************


さて、今回も、前回の続きである幕末維新のすり替わりの例をご紹介します。

まず、この写真。誰でしょう?

大村益次郎

(ウィキペディアから引用)

幕末維新のスターの一人、大村益次郎です。
<WIKI:大村益次郎>

しかし、この人物は、阿修羅によって本物にすり替えられたものなのです。おそらく1863~64年の頃です。前掲のウィキペディアにも、福沢諭吉が長州藩に入ったばかりの大村益次郎が、変貌した言動を吐いたことに驚いたエピソードが書かれています。

この偽益次郎は、阿修羅族であり、偽岩倉具視や偽三條実美と並ぶ幹部なのです。

後に暗殺されたのは、正規軍による粛清です。新撰組の存在と通じるところがあると思います。

さて、その大村益次郎も長州藩ですが、幕末の尊王攘夷運動において急進的に活動を活発したのが長州藩でした。

そのきっかけを作ったのが、誰もが知る吉田松陰です。
<WIKI:吉田松陰>

吉田松陰

(ウィキペディアから引用)

ところが、私は、吉田松陰をルーツとした木戸孝允、高杉晋作などの長州正義派は阿修羅の手先と主張してきました。
<WIKI:長州正義派>

ということは、吉田松陰も阿修羅だったのでしょうか?

私は、この点が分からずにいました。

しかし、先日、萩の松陰神社や松下村塾跡を見学して、真実が見え出してきたのです。

松下村塾跡

松陰神社

屋敷内の吉田松陰像

松下村塾①


松下村塾で学んだ長州正義派

松下村塾②


幕末の尊王攘夷運動のきっかけになったのは、前回記事でご紹介しました1853年の黒船来航ですが、日本ではこの少し前から尊王攘夷運動の機運は盛り上がっていたはずです。

特に、地方の薩摩藩、長州蕃、土佐蕃で、その動きが顕著だったのは皆さんもご存じのとおりです。

この時代は、朝廷を元の天皇制に戻そうという公武合体の動きがあったのです。そこに、黒船来航があったものだから、一気に公武合体(尊王)に攘夷運動に発展したのですが、攘夷の真の意味は外国人の排斥ではなく、そのバックにいる阿修羅の排斥だったのは前回ご紹介したとりです。

黒船来航に大きな影響を受けたのが萩にいた吉田松陰です。

松陰は、西洋文化を学ぶ目的で、二度海外渡航を試みますが、失敗し謹慎処分を受けます。

その後、有名な松下村塾を開き、長州藩の若手に陽明学や西洋思想などを教育し、育てていきます。

ところが、1858年、幕府が無勅許で日米修好条約を締結したことに怒り、時の老中、間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺計画を企てたとされ、捕えられ牢獄に入れられます。

そして、1859年安政の大獄の一環で処刑されたことになっています。

しかし、本物の吉田松陰は生き延びていたのです。死んだのは影武者です。

吉田松陰が、牢獄に捕えられることになった原因、
老中間部詮勝の暗殺計画は、実は阿修羅によって嵌められものででっちあげなのです。

当時の徳川幕府にも当然阿修羅が入り込んでいます。その筆頭が、大老井伊直弼。安政の大獄の首謀者です。

井伊直弼は、松陰の松下村塾に危機感を覚えていたのです。阿修羅排斥が主目的である、真の尊王攘夷運動が盛り上がることをです。

長州藩の若手が台頭する前に、トップの松陰を排斥しようとしたのです。

しかし、前述のごとく、本物の松陰は影武者とすり替わり、難を逃れます。

ただ、幕府は松陰の処刑を発表したので、松陰は別人に成らざるを得なかったのです。

その別人こそが、徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜なのです。驚きでしょう!

徳川慶喜

(ウィキペディアから引用)

孝明天皇がすり替わった勝海舟が、徳川慶喜を説得し、大政奉還を成し遂げたのは、徳川慶喜の前身が吉田松陰だったからなのです。

歴史の謎は奥が深いのです。

ただし、吉田松陰亡き後の長州藩は、松下村塾で学んでいた久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文なども主要メンバーは阿修羅によってすり替えられ、長州正義派となって松陰の思想とは違う方向に進んでいったのです。


最後まで読んでいただきありがとうございます。