すり替わりの真実(幕末維新④) | 知っとうや(真実を求めて?!)

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日本の歴史は、阿修羅による為政者等のすり替わりが頻繁に行われ、その結果、侵略・支配が繰返えされ、真実の歴史は改竄されてきたことを書いてきました。

一方で、阿修羅に対抗する正神界(本来宇宙には正神界、邪神界という定義はないのだが、阿修羅が勝手に作っている)も、ただ黙って見ているだけではなく、天の采配によるいい意味での重要人物のすり替えで、阿修羅に対抗してきたのです。

その典型が幕末・明治維新なのです。
<すり替わりの真実(幕末維新①)>
<すり替わりの真実(幕末維新②)>
<すり替わりの真実(幕末維新③)>

今回は、この幕末・明治維新のすり替えの中でも、天の采配によってすり替わりを行った、驚くべき事件・真相をご紹介します。

幕末の社会が混迷し、
尊皇攘夷運動が高まったのは、1853年のペリーの黒船来航がきっかけであるのは歴史の常識ですよね。

ペリーが日本に来た目的は、「当時の米国内では石油が発見されておらず、主力の燃料である鯨油を探しに捕鯨が盛んな日本にたどりつき、鯨油取引のため開国を求めた」と言われています。

ところが、ペリーが一旦帰国すると、米国で石油が発見され、鯨油の必要性は薄れたため、今度は貿易目的で開港を要求した、というような話も伝わっています。

この見解に関しては、私は阿修羅によるでっちあげだと思っています。

おそらく、黒船来航の背後には、
日本を支配したい阿修羅の強い思惑があって、阿修羅は外国の力を使い、日本に圧力をかけ、日本支配を行おうとしたのです。ペリーはその手足として使われたのです。現在のロシアのプーチンと同じです。マレーシア航空機撃墜事件は阿修羅の戦術に巻き込まれたのです。

阿修羅幹部は、長い間、安定していた徳川幕府を崩すには、国内だけで難しいと判断し、米国の力によって圧力をかけ、
尊皇攘夷運動の世論を高め、社会を混迷させていったのです。

それまで、鎖国によって一部の国としか交易を行っていなかった日本は、独自の素晴らしい日本文化を維持し続けていたのですが、明治維新を機に近代国家といういかにも耳障りのいい言葉に世論が騙され、阿修羅支配へ落ちていったのです。その結果が明治維新なのです。

明治維新が決定的になったのは、
大政奉還(1867年11月)とされていますが、実際にはその前(1867年1月)の孝明天皇の崩御なのです。

(孝明天皇 ウィキペディアより引用)

孝明天皇


公武合体や尊皇攘夷を阿修羅の思惑とは異なる方法で進めていた孝明天皇の突然の死によって、阿修羅主導の間違った明治維新につながっていったのです。

ちなみに
攘夷とは、「外国人を排除する」という意味だとされていますが、本当は意味は外国人ではなく、阿修羅に操られた外国人を排除することだったのです。当時の日本に圧力をかけてきていた米国を中心とした外国人は、阿修羅に操られていたからです。

孝明天皇が考えていた尊皇攘夷とは、阿修羅の支配を避け、本来の神国日本の形である皇室主導の政治を取り戻すことだったのです。

ところで、孝明天皇は、35歳という若さで亡くなっています。死因は天然痘とされていますが、これは阿修羅による改竄で、実際には
阿修羅による暗殺なのです。

刃先に毒を塗った刀で刺殺されたようです。
暗殺したのは、本来の伊藤博文にすり替わった阿修羅です。後に初代総理大臣になった伊藤博文とは、阿修羅がすり替わったものだったのです。驚愕です。

(伊藤博文 ウィキペディアより引用)

伊藤博文


ところが、暗殺されたと思われていた孝明天皇でしたが、実は死んでいなかったのです。死んだのは影武者だったのです。

ここから驚愕の歴史なのです。

阿修羅は、孝明天皇を暗殺し、皇位を継ぐ、幼少の明治天皇をすり替える計画でした。阿修羅の思惑を知っていた孝明天皇は、影武者の死を機に人生最大の大芝居に打って出たのです。

それが、
自身が別人物にすり替わることだったのです。

その人物とは、皆さんがよくご存じの
勝海舟なのです。驚愕でしょう!

天皇が、一般人にすり替わるというのはさすがに前代未聞なのかもしれません。

孝明天皇がすり替わる前の若き勝海舟はこの写真です。
(ウィキペディアより引用)

勝海舟①


孝明天皇がすり変わった1867年以降の勝海舟はこちらです。
(ウィキペディアより引用)

勝海舟②


幕末から明治維新にかけて、突然勝海舟が表舞台で活躍しだした背景には、孝明天皇のすり替わりが理由だったのです。

勝海舟は、真の維新メンバーを集めます。それが、以前紹介したフルベッキの写真のメンバーなのです。

明治維新

<すり替わりの真実>

これらのメンバーを統率したのが孝明天皇である勝海舟で、
真の維新群VS阿修羅という戦いが始まったのです。

そして、勝海舟が打った最大の手が1867年11月の
大政奉還のです。

元来、神武天皇以来、天皇が日本だけでなく世界の人類のトップであるべきなのですが、古代から阿修羅によって天皇の地位は下げられ、鎌倉時代以降は武家が力を持ち、実質的な権力トップは幕府という時代が800年ほど続きます。

孝明天皇は、この状況を本来の状態に戻したかったのです。それが当社の公武合体や尊皇攘夷の考え方だったはずです。

そこで、旧知の徳川第15代将軍徳川慶喜と、本当は自分の息子である幼少の明治天皇を手打ちさせ、大政奉還という日本史上有数の大事件を決行したのです。

これによって真の明治維新が成就するはずだったのです。

ところが、阿修羅はそう簡単にあきらめるような輩ではなかったのです。

阿修羅は、幼少の明治天皇をすり替え、皇室を侵略するという暴挙をやったのけたのです。1867年末から1868年初頭にかけてのことでしょう。

これをきっかけに、真の維新メンバーの多くは、暗殺されるなどして、阿修羅によってすり替えられて行ったのです。

実際に、明治初期に発足した明治新政府の主要メンバーで、真の維新メンバーで残ったのは西郷隆盛他ほんの数人だったはずです。

その西郷隆盛も西南の役で完全排除されることになるのです。

こうして、日本の近代は、阿修羅主導の天皇制に移行してしまったのです。大日本帝国憲法という悪名高い憲法が出来たのはこのためなのです。


最後まで読んでいただきありがとうございます。