「ねぇ、あっちでおねぇちゃんと遊ぼうか」
かずきはうんと返事をしてマイさんとカウンターの方に行った。マイさん、私の気持ちがわかったみたい。あらためて私は小声で話を続けた。
「かずきの世話。ここに縛られている私がいるのよ。そしてあなたのことまでいろいろやらなくちゃいけない。そんな中で私の時間なんてとれるわけないじゃない。私が自由になるためには、この状況から抜け出すには、もうあなたと縁を切るしかない、そこまで考えているのよ。もう私、我慢出来ない」
ここで自然と涙があふれてきた。今まで旦那に言いたくて言えなかったこと。これを今、思い切って言えたことで、心の奥からいろいろな感情が湧き出してきた。
「そうか…すまなかった。それがお前の思いだったんだな」
旦那は怒り出すかと思ったら、私の言葉を素直に受け止めてくれた。さらに旦那はこんなことも。
「オレはな、お前が望む未来をつくってやりてぇんだ。今までお前のことを考えずに、とにかく仕事に打ち込んできた。そうしねぇと小さな酒屋なんてのはすぐにつぶれちまう。でもよ、それはお前がいてこそのことなんだな。そんなこと考えてもみなかった。よし、決めた」
決めたって、何を? 私はまだ溢れ出る涙を拭うので精一杯だったが、旦那のその言葉で顔をあげた。
「お前がもっと楽になるように、お前に自由な時間を与えられるように、人を雇うことにしよう」
「えっ、でもそんな余裕はうちにはないわよ」
これが正直な気持ち。このご時世でただでさえ売上が落ちているのに。すると旦那はニカッと笑い、こう答えた。
「なぁに、オレの飲み代とパチンコ代を使えば、そのくらいなんとかならぁ。まぁ毎日ってのは無理でも、週二、三日くらいだったら雇える金は工面できらぁ」
「で、でも…もったいないわよ。私のわがままであんたに迷惑かけられないし」
「なぁに言ってんだ。今までお前に迷惑をかけてきたのはオレなんだからよ」
「でも…」
ここで今まで黙っていた羽賀さんがこんなことを言ってきた。
「おかみさん、白いクッキーと一緒にシェリー・ブレンドを飲んだ時、どんなものが見えましたか?」
このとき思い出した。
「私の中で苦味と甘味が融合したものがあったの。苦味は旦那、甘みは私の甘えたい気持ち。その二つがうまく組み合わされば、私の気持ちは深く安心することができる。そう、そうだったわ」
「それがおかみさんの出した答えなんですよ。さて、それと今の状況、どう判断しますか?」
羽賀さんの言葉であらためて確信した。これは旦那の言葉に乗っておけということなのか。そこに甘えていいってことなんだろうな。
今度は旦那のほうを見る。旦那はまかせとけ、という顔をしている。
「わかったわ。あなたの言葉に甘えさせてもらいます。でも、私も甘えてばかりはいられないから。あなたにも楽はしてもらうわよ」
「オレに楽を? どういうことだ」
このとき、私の頭中でとっさにひらめたいことがあった。
「私は平日に休ませてもらうから。あなたは日曜日は自分の好きなことをして過ごして。そうしないと、私も気持よく休むことはできないわ。なんか対等じゃないとフェアじゃない気がするから」
旦那は私の言葉に腕組みをして黙りこんでしまった。そして黙ってジッと何かを見つめている。