ヤグディン インタビュー記事 10 | カフェ プリヤートナのブログ

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遅くなってしまいました。今年3月18日に35歳になったヤグディンさんですが、誕生日の少し前に、誕生日に向けて、「文化」と言う新聞に出たインタビュー記事です。自伝に書かれている内容で、あまり目新しいことはありませんでしたが、自伝を読まれてない方もいらっしゃるかと思いますので書いてみました。


意訳やわからない所もあります。また、誤訳がありましたらご指摘いただけると助かります。


記事はこちら↓

http://portal-kultura.ru/articles/sport/91113-aleksey-yagudin-v-detstve-menya-spasala-santa-barbara/


アレクセイ・ヤグディン:子供の頃、「サンタ・バーバラ」を保存した。

(注:サンタ・バーバラはアメリカのテレビドラマです。)


3月18日、現代の非常に輝いているフィギュアスケーターの一人、アレクセイ・ヤグディンが35歳になる。記念日の直前に、オリンピックチャンピオン(ヤグディン)は「文化」の質問に答えた。


文化:どのように誕生日を祝う予定ですか?


ヤグディン(以下ヤグ):まだ考えてなかった。その日(誕生日)は好きじゃない。30歳はブリャンスクで迎えた。そこでメンバーと一緒に(ショーに)出演していたんだ。皆はお祝いしてくれたんだけど、僕にとっては憂鬱だった。ホテルから外に出るとアベルブフがいたので、「イリヤ、重苦しい感じがして、なんだか吐き気がするよ」と話をすると、彼は、「全部正常だ。元気がなくなるものだよ。僕も同じようだったよ。40歳を祝う時は、更に悪くなるよ。」と答えた。5年後、どれだけ彼が正しいか、チェックするよ。


文化:人生で、まだ何か不快な瞬間がありましたか?


ヤグ:一度、スポーツ(スケート)をかろうじて諦めなくてすんだことがあった。もし、タチアナ・アナトリーエヴナ・タラソワがいなかったら、僕はオリンピックチャンピオンにはなれなかった。


文化:詳しく?


ヤグ:2001年、オーストラリアでグッドウィルゲームに出場した。とてもそこへ出たかったんだ。タラソワは、準備ができていないために、断念させたいと思っていたけれど。

結局、コーチが話したとおり、出場して、ただ3位だった。精神的な荒廃が満ちていた。スポーツ(スケート)と縁を切る時だ、と決心した。

タラソワをレストランに誘い、ワインを一本注文して、そして言った。「あなたには全てにおいて限りなく感謝している。でも、これ以上できない。3つの世界選手権と2つのヨーロッパ選手権のタイトル、もう充分だ。もう終わりにする。」話を続けたかったが、タチアナ・アナトリーエヴナは遮って、もう一本(ワインを)注文することを提案し、そしてそれから話した。「リョーシャ、皆でオリンピックに行きましょう。さあ、3位になったから?(←訳怪しいです。)これ以上落ちることはないわ。オリンピックのメダルは確実に役に立つわ。」鋭い心理学者だ。緊迫度が下がり、状況は、惨めではないように見えた。

そのシーズンは、まるで翼で飛んだようだった。2002年のオリンピック、世界選手権、ヨーロッパ選手権で優勝した。全ての戦利品を収集したんだ。一つを除いて。驚くべきことに、このキャリアにおいて、ロシア選手権で勝つことに成功したことは一度もない。4度とも「銀」を取った。


文化:他にまだ、フィギュアスケートを止めたかった時はありましたか?


ヤグ:10歳のときだ。それについて、ママにはっきりと伝えた。僕(の言葉)にびっくりし、ママは静かに答えた。「やりたくないならー滑らなくていい」。というのは、僕がスケートをやらなければならないと決めたのはママだったから。その当時僕はまだ4歳にもなってなかった。

ママは、情報局の科学研究所職員で、コンピューター工学の技術者として働いていたのだけれど、規則正しく、(僕を)トレーニングに連れて行った。どのようにママが、自由時間を(上司と)交渉したのか、僕にはわからない。おばあちゃんも助けてくれた。僕達は、市営のアパートの2部屋に一緒に住んでいた。おばあちゃんは僕を学校から連れて行き、サンドイッチの紙袋を入れた小さなバックを持たせて、バスに乗せて座らせた。次の停留所でママが待っていた。

ママはとても厳格な人だった。仕事(スケート)をするときは、どの指導者よりも、より厳しかった。冬の休日に森でスキーをすることはなかった。スケートでは、もし、何かジャンプでうまく行かなくなると、慈悲は当てにはならない。最後通牒が響いた。「ジャンプが10回中10回、完璧にできたら、帰りましょう」。ジャンプを1回跳んで、2回跳んで、そして8回目に(完璧なジャンプが)跳べた。すると(ママが)言った。「最初からまた始めなさい。」しかし、それだからこそ、「10点満点」のジャンプがきれいにできたとき、本当に幸せを感じたんだ。


厳しさを考えてみて?でもそれは効果的だよ。夏、少し長く眠れる時でも、朝早くから僕は起こされて、絞られた。懸垂をしたり、走ったり、開脚して座らされたり、アラベスク(注:フィギュアでのスパイラル)の姿勢で立たされたりした。そのおかげで、多数の勝利を勝ち取ることができた。


ママは、真の指導者だ。僕は確実な学科は「優」になったが、作文は苦労して書き上げた。このような場合には、僕たちは勝利広場公園に散歩に出かけ、話をした。僕は、登場人物の特徴を理解し始めた。そのような話の後、熱中して作文を書いたんだ。


文化:あなたは、中学校を卒業するための金メダルを、本当に後わずかなところでつかめませんでした。何が妨げたのですか?


ヤグ:4つのうちの1つの根拠(←すいません、ここの一文わかりません)。生まれつきの強情さのせいでそれ(シルバーメダルのことと思います)を受け取った。思い出したくない。スポーツでは強情さは助けになるが、勉強では、必ずしもそうとは限らない・・・この観点で、ママと僕は火花を散らした。

トレーニングの後、遅くに家に帰ったら、休憩の代わりに宿題が待っていた。急いで10個の課題を解いたが、ママは1つの間違いを見つけた。そしてママは間違いを僕には指し示してはくれなかった。僕たちは、それを修正するまで、夜中の3時までずっと座った状態だった。いつかある時は、朝まで、間違いを見つけられなかった。お互いに正面に向かい合って夜が明けるまで座っていた。


文化:子供のころは、とても忙しかったですが、どのように休憩を過ごしていましたか?


ヤグ:「サンタ・バーバラ」を保存していたよ・・・。果てしなく長いシリーズで、その当時、(すいません、次の一文балделиが辞書に載ってなくてわかりません。)夜8時に始まるいつものシリーズだ。

おばあちゃん、おじいちゃん、そしてママはテレビの前に腰を下ろした。一方僕は、テーブルについて夕食を取った。最大限に時間を引き延ばすんだ。食べ物を皿に塗りたくりながら、のろのろと噛んだ。僕に注意を向けた時、追加を頼んだ。それから皆はまた「箱(テレビ)」に向きを変えた。一方僕は、噛むふりをして休憩した・・・

僕の妻のタチアナ・トットミアニーナもオリンピックチャンピオンで、ただしペアのね、そのようなスポーツをする幼年時代のことをよく理解している。彼女のママは、自分の時間に、大きな人形を買うためにデパートに数時間並んだ。彼女はすごかった、なんて良いんだろう、ターニャは寝る前にその人形とちょっと遊ぶことができたんだ。他の人たちと楽しむ時間は取れなかった。

スポーツで成功を得るためには、幼年期と健康を犠牲にせざるを得ない。僕たちの小さな娘は必ずしも両親の先例に倣うことはないと思う。家族に2人のオリンピックチャンピオンがいれば十分だ。


以上です。


わからない所がたくさんあって申し訳ないです…。

しかも日本語もこなれてなくて読みにくくてすいません…。


しかし誕生日に向けてのインタビューで、なぜ失敗談?や思い出したくない思い出の話?と思いましたが。


厳しくも愛情たっぷりのママの指導を受けて、それに応えることができたことは素晴らしいです。スポーツと学業を両立させることがどんなに大変だったことか。しかし、ママも仕事をしながら、ヤグの勉強に朝まで付き合うというのもすごいですね。

健康を犠牲にしてしまったことは取り返しがつかないので、本当に残念でなりません。




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