知っているようで知らない江戸時代 | 男46歳のダイエット!!!

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自分がデブだと気が付き、血と汗と涙のダイエット日記

NHK大河ドラマの"光る君へ"は、紫式部を中心に藤原三兄弟(道隆、道兼、道長)を主軸の平安絵巻調のドラマである。

しかし、台詞が現代調で興醒めであるが、せめて「妾(わらわ)は・・・」とか「麻呂は・・・でおじゃる」とかは言って欲しい・・・

ここで、道兼であるが、彼は道隆の後を継いで関白になるのであるが、関白就任後俄に病となり過ぎに他界してしまうのだが、俗に言う"七日関白"と呼ばれるのだ。

まあ、脳天気な歴史家は流行病で亡くなったと言うが、その後怨霊として道長に祟っているので、間違えなく道長一派による暗殺である。

平安期前の歴史を学んだときに、怨霊信仰は大切なキーワードとなる。

今だって、「人を不幸にすると自分もヤバい・・・」と思うでしょう?

まして、己のイジメで人が死ねば祟られるかも・・・となるのは、立派な怨霊信仰である。

平城京から平安京に遷都した桓武天皇だが、彼も怨霊に悩まされ、遷都するの勅に貴族が誰も異を唱えていないのも、誰もが早良親王(桓武天皇の同母弟)の怨霊を信じていたからである。

菅原道真の怨霊も、御所を襲い、道真を陥れた藤原方が憤死して、"清涼殿落雷事件"が起こり醍醐天皇は「道真、許してくれ!!!」と叫ばれたという。

詰まり、天皇が"菅原道真の怨霊"を公認してしまったのである。

更に、清涼殿落雷"事故"ではなく、"事件"なのであるから、清涼殿落雷は藤原一門の行為に菅原道真が死してなお怒りが収まらずに祟ったという事件なのである。

 

時代は下るが、織田徳川連合軍によって甲斐武田が天目山で勝頼以下自害で滅んだのだが、家康公は後にこの地に寺を建立して御霊を祀っている。

奥州藤原成敗をした源頼朝公も平泉の地で藤原氏を倒しが、中尊寺や金色堂を破壊することをしなかったのも、怨霊を畏れてのことであるという。

世界の常識だと、頼朝公は金色堂を焼くか、鎌倉に戦利品として持ち帰り、中のミイラを晒し者にするのであるが、日本では絶対にやってはならないTabooなのである。

 

ここからが本題であるが、皆さんは江戸時代のことを何処までご存じですか?

江戸時代は8割以上の人々が読み書きできるのである。

更に手なら無いとして、公儀からの御触書を読めるように公文書の字体も練習していたという。

 

戦国時代のベストセラー本は、孫子の兵法書であったが、江戸時代のベストセラー本は、何と武鑑書であった。

武鑑書は全国の大名家、直参旗本の情報が掲載されている本である。

 

時代劇だと大名行列の通るとき「下に〜下に」と町民が土下座をしているシーンがあるが、実際は町人は土下座をせずに見物していたというし、大名行列自体が江戸観光の目玉であったという。

そもそも大名行列の始めは、参勤交代であるが、嘘歴史の教科書だと、"全国の大名家の財力を削ぐ目的"と習ったはずである。

更に、江戸の大名家の正室や子供を人質として住まわせていたとも習ったはずだが、これも全て嘘であった・・・

 

先ず、江戸の奥方様だが、そもそも田舎などの住みたいと思いますか?

地方に行くと、私は銀座のネオンが恋しくなるのだが、当時も同じで田舎で暮らすよりも都会の方が楽しいし、茶会や歌会などのイベントも重要な仕事でしょう?

若様だって、方言で喋れば殿中で恥をかくし、若いうちから他の大名家の若君等と親交を温める必要もあるでしょう?

 

では、何故参勤交代をシステムとしたのであるか?であるが、17世紀当時、世界一の金持ちは当然徳川家康公であり、金本位制であったので、神君公は何と独りで世界の富の1/3を持っていたのである。

当然、その富や権力にあやかろうと思うのは当然のことであろう。

だから、ご機嫌伺いに江戸にやって来る大名が後を絶たないし、己の家をアピールするために贅を凝らした行列でやって来たという。

しかし、その贅は民の税から来ているのであるから、華美な装いを止めさせるために、参勤交代を制度化し、行列の規模も負担が軽いように決めたのである。

これは幕府からの大名家への"愛"であったのだ。

1年江戸で1年国元であったので、大まか江戸には200家の大名が常駐していたという。

毎月1日、15日、28日は、大名家総登城の日であった。

因みに江戸時代は太陰太陽暦であったので、大の月が30日小の月が29日でこに閏月があるので1年13ヶ月であった。

 

本丸御殿には大名家の禄高に関係なく大名一人しか入れなかった・・・

因みに各地にある城の本丸御殿は、大名が住んでいた場所ではない。

大名は通常二の丸に居住していた。

本丸は公方様が行かれた折の御殿である。

日本全国の城で、本丸に入れるのは上様だけである。

更に、江戸時代「将軍様」と言ったら打ち首であった。

上様、公方様、御本丸様と呼称していたが、町人は公方様と呼ぶのが一般的であったようだ。

 

さて、大名行列が江戸の観光名物であり、大名行列がある日は多くの見物客でごった返したようだ。

出店も建ち並び、武鑑書も飛ぶように売れたという。

かけ声も「開けろ」とか「下がれ」とかみたいであったという。

 

しかし、紀州徳川家、尾張徳川家、所謂御三家の行列は、町人はしゃがまねばならなかったという。

今で言う"ウンコ座り"である。

水戸家は参勤交代が無かった・・・

紀州家、尾州家は関所でも、籠に乗ったまま顔を見せれば通れたというが、一般大名は籠から降りる決まりであった。

 

もし大名行列が御三家の行列とかち合えば、道を譲り殿様は籠から降りて一礼する決まりがあった。

例えば、飲み屋で武士同士の喧嘩があって、相手が御三家の家中で、更に怪我をさせたら怪我をさせた武士は問答無用で切腹であった。

水戸黄門で「助さん、格さん、懲らしめてやりなさい」となり乱闘となるが、その際、助さん、格さんが怪我をしたら、問答無用で切腹なのだ。

「知らなかった」は免責事由にはならないのだ・・・

 

まあ、御行列側も、人々に注目されているのだから、気合いが入ったことは想像に難くない。

 

これが公方様なら話が変わるのだ。

もし、公方様突如の御成になれば、これは我々の知っている土下座になるし、公方様の御駕籠を見てもOUTであったという。

 

通常は、3日前に知らせが入り、その日は朝から火を使うことが禁止される。

更に、当日は縄が張られ物々しい警護が付いたのである。

 

まあ、通常の大名行列の見物は、ディズニーランドでパレードを見る感じで有ったのであろう。
 
最期に、大名行列を追い越して良いのは飛脚、大名行列を横切って良いのは産婆であったという。
言い時代であったと言えるのではないか?