国史を知れば楽しい | 男46歳のダイエット!!!

男46歳のダイエット!!!

自分がデブだと気が付き、血と汗と涙のダイエット日記

歴史を学ぶことは、浪漫であると思うし、特に国史を学ぶことは我々の先祖の生き様を学ぶことである。

ところが戦後、GHQに寄って国史を学ぶことをTabooとされ、日本の文化は全て支那の模倣とされた自虐史観が植え付けられ、文科省も支那朝鮮に忖度をし、我々の歴史を"日本史" と呼称し、何処か外国の歴史の様な感じを植え付けている。

更に、日本人なら当然必須にすべき国史を選択科目とする辺りが、大和民族を馬鹿にしている。

更に、神武天皇から崇神天皇までの10代の内中の綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇、孝昭天皇、孝安天皇、孝靈天皇、孝謙天皇、開化天皇を欠史八代と言っている馬鹿な輩が多い。

奴らの言い分は、この八代についての記録が少ないというが、御陵があるにも拘わらず意味不明なのである。

因みに、支那の古代王朝の記録にはこれらの天皇な名は記されている。

まあ、科学では無くファンタジーを生きている歴史学者が多いのが嘆かわしい・・・

 
初代神武天皇は日本国を建国された大事業を行った方であるので、記録が多いが、そこから国の運営が上手く行っていたので記録が少ないのは頷けるはずだ。
第十代の崇神天皇の御代は、日本中に疫病が流行り大多数の日本人が死亡したと書かれている。
病に冒された人や家族が病に倒れた人々は、自然と神社に行き神に祈ったのであるが、ここで崇神天皇は、神社に入る前に手洗い嗽をすることを命じられたのだ。
これが現代の手水舎なのである。
我々は崇神天皇の勅を今なお守っているのである!!!
令和元年に東京大学のさる研究チームが日本人のDNAを解析したところ、今から2500年ぐらい前に大災害によって人口が激減したことを突き止めた。
古事記日本書紀の記載と一致しているのである。
 
さて、国史を勉強して恐らく意味が分からなくなってくるのが、律令制度辺りからだと思う。
ウィキペディアによると7世紀に支那の律令制度を用いた的なことが書いているが、本当にアホである。
先ずは律令とは何であるが、律は刑法、令は民法である。
詰まり、法治国家ということであるが、そもそも神武天皇以来、国を運営するのに法が無くてどうやって治めるのか?
何が何でも大陸から文化が来ないとダメだという自民党の考えなのだ。
 
日本の律はざっくりであるらしいが、令は事細かに決まっているのだそうだ。
詰まり、当時から日本は治安が良かったことを意味している。
 
次に意味不明なのは"荘園"だと思うが、荘園は太閤検地まで存続していたのである。
荘園とはズバリ"脱税システム"なのである.
この時代、公地公民であり、全ての土地は国家のものであり、田畑で収穫された作物は課税対象であったのだ。
しかし、当時の貴族達は税を払いたくないので、考案されたのが荘園なのである。
詰まり、別荘の敷地内の田畑は、収穫用で無く観賞用だから非課税なのだ。
あれ?1300年前と現代の政治屋とやっていること同じ・・・???
脱税するなら税法を変えれば良いだろう?ではないの?
何時の時代も政治家は腐っているのである。
更に、光る君への藤原道長は、この荘園にも課税すると言ったのだが、荘園主たちは荘園の名義を道長にして、みかじめ料を払うことで課税を免れたのだ!!!
政治資金とすれば非課税と同じなのだ・・・
 
徴税役人も持ち主が、関白殿下ならばどうすることも出来ない・・・
検察も国財も岸田に手出しできないのと同じだ・・・
 
皆さん、歴史は面白いでしょう?
 
藤原良房から摂関政治がはじまり、これは娘を天皇に嫁がさせ、その子を帝位に就けることで外戚を利用する政治である。
約150年間もこの国の政治を私した罪は重い!!!
その間も天皇家による反乱は起こったのだが、悉く藤原摂関家潰されたのだ・・・
しかし、この藤原摂関政治が実は武家を生み出す土壌となったのだ。
 
例えば、同じ藤原氏でも摂関家から遠ければ出世は出来なので、このような輩は地方へ行くのである。
"守"という役職になるのだが、まあ現在の県知事のような立場で、任期は一年であるが、この一年で公費をぶっ込み新田開発をするのだが、任期が明けても都に帰られずにせっせと開墾(蓄財)を続けて、その土地を荘園として武装して管理していたのだ。
同じような思いの輩が中央からやって来るのだから、まあ土地の奪い合いもあったという。
こうして桓武天皇の子孫が平氏となりやって来たのが今の茨城県であり、ここで勢力を拡大すしたのである。
平氏本家が貞盛の時代に、一大事件が起こったのが"平将門の乱"である。
関八州を得て大和から独立したのである。
これが武家政権最初といえる。
これは失敗するのだが、この本家貞盛の子等が、後の平清盛、北条氏等を生むのである。
良く、壇ノ浦で平家が滅亡したと言うがそれは、平氏の一族の一つであり、その後も北条氏が鎌倉幕府を牛耳っていたのだだから、平氏の支配は続いたのだ。
 
さて、何故摂関政治が廃れたのか?
それは天皇家の反乱が成功したからである。
これを院政と呼ぶのだ。
院政とは、摂関家が天皇の外戚である権威を使って権力を手中にするのなら、こちらは元天皇の権威を使うって対抗したのだ。
どちらの権威が強いかは言うまでもない。
現在は院様はお人柱だが、当時は数柱御座したのだ。
その中でも一番を"治天の君"と言った。
朝廷は独自の武力を持っていなかったので、新興勢力の武士を利用したのである。
こうして、後白河法皇と平清盛が出会ってしまったのだ。
清盛は、将門の失敗から学び、独立はダメなので公家化したのだ。
摂関家に習い、自ら娘を入内させその子を天皇としたのだ。
摂関家より強力なのは、独自の軍団を持っていたことである。
 
源平合戦は源氏対"平家"であり、源氏対平氏ではないのだ!!!
源氏オールスター軍対清盛一族の戦いであったのだ。
 
因みに鎌倉武士団の多くは平氏であった・・・
源頼朝は、壇ノ浦の戦いで勝った義経に怒ったと言うが、まあ脳天気な学者は義経の功績に嫉妬したとか言っているが、実は義経が馬鹿であったからである。
頼朝は後白河法皇と取引したのだ。
取引材料は三種の神器の返還である。
勾玉を返すから、司法権を寄こせ、鏡を返すから徴税権を寄こせであるが、それを理解しない義経は天叢雲剣の回収よりも平家打倒を優先したし、更に京に帰って幕府の許し無く勝手に後白河法皇から"判官"の役職を貰ったのだ。
当時、鎌倉幕府は日本の武士に「官職は幕府に願い出よ」としていたのに、鎌倉殿の実弟が勝手に朝廷より任官されたのは一大事でしょう?
 
日本中の武士は何故、鎌倉幕府に忠誠を誓ったのか?
少し前に書いたが、荘園の名義は貴族であり、実質管理(開墾したのも)武士であったが、朝廷は武士の土地所有を認めていなかったのを、鎌倉幕府が公的に土地の所有権を認めたのである!!!
 
つづく