短編:ヴェイカンシィの午後
江別に越してきたばかりの頃、私はまだこの街の匂いに馴染めずにいた。
駅前の風はどこか乾いていて、遠くから聞こえる列車の音だけが、時間の流れを教えてくれる。
そんなある日、住宅街の角にひっそりと佇む小さな店を見つけた。
白い壁に、控えめな文字で「VACANCY」と書かれていた。
扉を押すと、薄い光が店内に広がり、ヨーロッパの教会で聴いたような澄んだ歌声が流れていた。
その音は、店の空気をゆっくりと満たし、外の世界のざわめきを遠ざけていた。
カウンターには、野良仕事を終えたばかりのような老婆がひとり、静かに腰掛けていた。
私が入ると、振り返らずに言った。
「ここのコーヒーは、うまいよ」
その声は、長い年月を生きてきた人だけが持つ、確かな響きだった。
私はその言葉に背中を押されるように席についた。
店を切り盛りしているのは、年配の女性ひとり。
白いシャツの袖を丁寧に折り返し、客の動きをよく見ている。
厨房には、白い帽子をかぶった老人のコックが、静かに鍋をかき混ぜていた。
二人の動きはゆっくりで、無駄がなく、長い時間を共に過ごしてきた人たちの呼吸がそこにあった。
カウンターからテーブル席へは、わずかに段差がある。
その段差を下りると、まるで別の世界に降りていくような感覚があった。
初めて来たとき、奥の席の椅子には店員のコートが無造作に置かれていて、少しだけ戸惑った。
しかし、運ばれてきた料理の温かさと確かさが、その小さな違和感をすぐに溶かしてしまった。
ある日、次男を連れて訪れたとき、店内には珍しく外国の女性がいた。
彼女は慣れた手つきでメニューをめくり、店主と短い挨拶を交わしていた。
その姿は、この静かな店が誰かにとっての“帰る場所”であることを示していた。
窓の外には「そば天国」の赤い看板が見える。
その向かいに、この小さな店はひっそりと佇んでいた。
コロナ禍のあと、建物は別の店に変わってしまったが、
あの午後の光と、教会音楽のような歌声と、老婆の一言は、今も胸のどこかに残っている。
「ここのコーヒーは、うまいよ」
その言葉だけが、店の記憶を静かに支えている。