染川を東へ遡り、さらに南東へ山道をのぼって行きました。東夷・阿久留王の本拠地に向かっているのです。
登り切った場所には、マザー牧場がありました。この山は鬼泪山といいます。「きなだやま」と読むんですよ。
ヤマトタケルノがこの山に住んでいた鬼を退治した時に、鬼が泪をこぼしたことが名前の由来とされています。
また、この時に鬼が流した血で赤く染まったのが「染川」の名前の由来なんですよ。
この鬼は、阿久留王のことです、出身地から六手王とも呼ばれます。今も「六手」という地名が残っています)
ヤマト朝廷からは「鬼」と呼ばれる悪者ですが、地元では民を思いやる優れた執政者だと伝わっているそうです。
ヤマトタケルノに負けた阿久留王は、鹿野山の西にある山に逃げ込んで涙を流して命乞いをした。
そのためにその山の名は「鬼泪山」と呼ばれている。
そして八つ裂きにされた阿久留王の血は3日3晩流れ続け、その血が流れた川は「血染川(現在の染川)」とよばれた
鹿野山 神野寺
今から1423年前、日本で4番目に聖徳太子によって開かれた関東最古の名刹(古寺)であり、関東三大修験道(鹿野山、筑波山『茨城』、榛名山『群馬』)の一山であります。
神野寺HPより
阿久留王との戦いで諸神がヤマトタケルに味方したため、「神野(じんや)」と呼ばれ、寺の名前もそこから名づけられたと伝わるそうです。
この戦いから約300年後、聖徳太子は軍荼利明王と薬師如来を本尊とする神野寺を建てました。軍荼利明王は阿久留王が垂迹したものとされているそうです。
また、寺の北側には阿久留王の墓と言われる塚があり、神野寺では月に1回法要がおこなわれているといいます。
軍荼利明王は、、蛇が身体にまきつく姿で表されることがあります。そして、もう1つ鬼泪山の伝説。
鹿野山山麓に九頭・九尾の大蛇が悪さをしていたので、ヤマトタケルが退治にやって来た
ヤマトタケルノミコトは逆に丸飲みにされるが、逆に腹を割いて大蛇を退治した
大蛇から流れ出た血は川を真っ赤に染め、血染川と呼ばれるようになった
大蛇を供養して建立したのが、神野寺にある九頭龍権現である
たくさんの頭を持った大蛇を退治・血に染まった川・・・スサノヲのヤマタノオロチ退治を思い出しました。
私が子供の頃、このお寺で飼育していたトラが脱走したことがありました。1週間見つからなくて怖かった覚えがあります。50km離れていたのでまあ大丈夫だったって、大人になってからわかりましたけれど・・・
神野寺から九十九谷展望公園に続く道は坂になっています。この坂はアクル坂とよばれています。
鹿野山九十九谷展望公園
上総丘陵が幾重にも連なる山並みの風景を一望できます。
それらを総じて「九十九谷」と呼びます。
お天気が~ せっかくの展望なのに、お天気が悪くて遠くまで見えませんでした。
写真付きの解説板があったので、それに合わせて写真を撮ってみました。
鹿野山の由来は、鹿が多くいたことからという説や、砂鉄が採れたので「金生山」と呼ばれていたという説などがあります。
海岸の方に行くと「金田」・「金谷」といった地名がありますし、日本製鉄の工場もあります。日本製鉄は偶然ですね(笑)
(血)染川から連想して、 → 赤い → 酸化鉄?
鹿野山から20km東に富津岬があります。この大きな岬はほとんど砂鉄なんだそう。
この観察会で、お土産に軽石と砂鉄を採取してきました。
お天気がよければ、絶景だったでしょうに
でもこの公園はヤドリギがいっぱい💗だったので、良しとしましょう。