「我慢」というと、現代では「耐え忍ぶ」とか「辛抱する」という意味で使われていますよね。
我慢強い人、なんて言われると、ほとんどの場合誉め言葉という扱いになるのではないでしょうか。
自分の我や欲を通さず、不本意な環境でもじっと耐えられる人、のような。
そこにはなんだか自己犠牲的な美しいニュアンスすら感じます。
ところで、仏教の伝える「煩悩」の一つに、「慢」という項目があります。
この「慢」は、「自分を過大評価すること」とか「うぬぼれる事」みたいな意味なのですが、
実は、この「慢」というカテゴリの中に
「我慢」というワードがあるらしいんです。
つまり、我慢は「過大評価」や「うぬぼれ」のカテゴリに属するものだというわけです。
面白いですよね。
仏教的に言うと、我慢の元々の意味は「自分に執着する」、なんだとか。
「私」を強く意識していて、「私はすごいぞ」と思ったり自分本位になっていることを指すのでしょうね。
確かに、私たちは心の中でちょっとだけ「我慢強い人はすごい」とか「我を出さずに耐えることは美しい」みたいなことを思っています。
だから、私は我慢してきた、という自負が強くなればなるほど、「そんな私は可哀想ですごい」という気持ちもちょっとだけ出てきます。
これは、そう思う人の性格が悪いのではなく、わりとみんなそうです(笑)
そう思わないとやってられないこともたくさんありますしね。
でも、
もし「我慢ばかりの人生を送ってきた人ほど、実は自分にとても執着している」なんていうことがあるのだとすれば、
我慢ばかりの人生から解放されたら、「私」への執着からも解放されて、自由にのびのび生きられるのかも。
そんな風にも感じますよね。
なぜこういう話を書いているかというと、
「我慢」が良いもの、美しいものとされる環境で育った人は、自分を苦しい目に合わせて我慢する(美しい存在になる)ことで、周囲からの注目や愛情を獲得しようとすることがあるんですよね。
我慢をすることで認められる=「なんでも我慢することで愛が得られる」と心が学習してしまうからです。
我慢することで愛が得られる、というのは、「我慢しないと愛が得られない」ということです。
だからこういう方に、「我慢をしていてえらかったね!」と言いすぎてしまうと、その人の中に「やっぱりつらい思いをしないと愛情を得られないんだ」という根拠を作ってしまうことになるので、もっと我慢がやめられなくなったりします。
だから、なんでもかんでも我慢してしまう癖がある人は、思い切って
「我慢は”私はすごい”という自惚れ!」と逆のことを思ってみるといいかもしれません。
「我慢」に付与された自己犠牲的な美しさを削ぎ落して、
我慢というものを、愛されるための手段から、ただの「うぬぼれ」という認識に変えてしまいます。
そうすることで、「我慢」をあなたに強いてきた心の傷が
「愛される手段にならないなら、我慢は必要ありません」
と言い出すかもしれません。
意外なところから、自由への第一歩が始まることがあります。
*このブログは毎日19時に更新されます
当カウンセリングルームに所属する、女性カウンセラーの情報はこちら