”物語的アイデンティティー”を刷新しながら生きる | チエでつながる, ワザでつながる、ココロでつながる、価値を生みだす           ~ 物語思考が世界をかえる

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この世に生まれて間もなく、人は「ものがたり」と出会い、そこで広い世界とのつながりを作ります。このblogでは、「ものがたり」と共にある人の可能性を探求していきます。

 

“ストーリーテリング”を行うメリットは、

主に二つあると、私は思っています。

 

一つは、

 

“ホントウの自分”、

“素のままの自分”、

“世間の枠の囚われから自由になった自分”

 

が、語る中に発見できること。

 

そしてもうひとつは、

 

並立する多様なストーリーに底通する、

ある程度一貫性をもった統合的な自己が、

語りの中から立ち現れてくることです。

 

これは、前に

https://ameblo.jp/c-b-collaboration/entry-12800955657.html

でお伝えした

“首ひとつ高い”メタの視点で

語る行為がなされるからだろうと思います。

 

一貫性を持つ統合的自己を、

“自己同一性=アイデンティティ”と

言い換えてみると、

 

そこには、

「私は何者?」への答えが見えてきます。

借り物でない「自分」が、言葉で現れてきます。

 

通常「私は何者?」を誰かに伝える時には、

 

〇〇社、開発課の課長代理、とか

IT企業で金融系担当のプロマネとか、

“二児の父親”、“オヤジバンドのベーシスト”

の様な”属性“を指すケースが多いと思います。

 

これらは勿論「私は何者?」への答えですが、

 

「だからどうしたいと思うの?」

「結局、何がやりたいの?」

「一体どっちに行きたいんだよ?」

 

の様な問いに答えてくれるものには、多分なりません。

 

大事な意思決定を行ったり、

行きたい未来を思い描いたり、

他者と本当の関係を構築しようとする場面で、

 

上に書いた“属性的なアイデンティティー”は、

表層を示しているだけなので、

選択する主体としての役割を果しえないからです。

 

対して“ストーリーテリング”から立ち現れてくる

一貫性を保った自分、いわば

“物語的アイデンティティー”というべきOUTPUTは、

確かな感覚に連結している分、

 

「私は何者?」への

一つの答えを与えてくれるはずです。

 

語りの中に自分の価値観、自分らしさ、

守らなければいけないと思うもの、等が

反映されているはずだからです。

 

と、書くと、ここに現れるアイデンティティーは

明確に自己主張できる、常にブレがなく、

強く、頼りになる、そんな印象を持ってしまいそうです。

 

しかし現実はそうではなく、

矛盾だらけの自己を一貫した存在として保つには、

どんな態度をとるのがが相応しいか、

とか、

 

他者との関係を維持するために、

“自分”をどう提示していくのがいいのか、

 

その為に、

自分の中にどう折り合いをつけていくか、等。

 

そんなことをあれこれ考えながら、

自分のウチとソトをどうにかバランスさせている状態が

実体に近いのだろうと思います。

 

その行為は自分の内側に展開する

複数のストーリーを納得できる形で共存させる営みであり、

 

その営みは、充実度の高い人生を送る上で

避けることが出来ないプロセスなのだろうと思います。

 

ストーリーテリングは

“物語的アイデンティティ”を現出させる場です。

 

“物語的アイデンティティー”は、常に揺れ動いていますが、

語る行為は、これに一時的な平衡状態をもたらします。

 

そして“語り”に現れた“ことば”を消化していく中に、

自分らしいふるまい、自分らしい発想、自分らしい生き方が、

よりしっかりした形で確認できる様になるのでしょう。

 

現代を生きる私たちは、“自分らしく”生きる為の

そんなプロセスを必要としているのだと思います。