希望は待っていてもやってこない。
希望は自ら構築しなければいけないものだ。
そう書きました。
では、自ら構築するにはどうすればいいのか。
希望は「きっとある、と信じられる何か」
とも書きました。
「ある」と信じられるためには、
何らかの根拠が必要な訳ですが、
21世紀日本の現実として、見える形で
「きっとある」と思える明るいものが、あまりない。
それどころか、明るさが目の前から
どんどん消え去っていく様な状況があります。
半世紀前の日本なら、昨日より今日が、今日より明日が、
良くなっていると、誰もが感じることができた。
今は、そういう感覚の共有はありません。
じゃあ、もはや希望は持ちえないのかと言えば、そうではない。
自分の内側にある真実の声を聴くことで、
「きっとある」の確信につながる、
希望の種を生みだすことが出来るからです。
これは、従来は希望の種が外にあったけれど、
今はそれが期待できないから、内に求めていこう、
という話ではありません。
元々希望の種は心の中のものであって、
その実体は、自分が世界をどのように解釈しているか、
あるいは、
自分が自分自身をどんな存在として捉えているか、
といった認識とつながるものです。
東京パラリンピックに難民選手団の一員として出場した
シリア人アスリートのイブラヒムさんは、
母国の内戦で砲弾を受け、片足を失いました。
治療を求め、決死の思いで戦乱の地から脱出するも、
その後難民として様々な苦難や屈辱に出会い、
“何故、自分がこんな目に合わなければいけないのか”と
何度も絶望的な気持ちになったそうです。
しかし彼は、今や世界に8400万人もいると言われる、
難民として苦しんでいる人々に、
自分の頑張る姿で勇気を与えたい、と思うに至り、
現在はアスリートとして活動する傍ら、世界各地に赴いて、
人々を勇気づける様々な活動を行っています。
この
「難民として苦しんでいる人たちに勇気を与えたい」
という内なる声が、イブラヒムさんの生きる姿勢を決め、
目指す世界の姿を確定させています。
その一言が、イブラヒムさんの希望の種になっていることに、
特段の説明は不要でしょう。
重要な点は、「きっとある何か」と「自分自身のありたい姿」が
融合され、一体化されていることです。
そこで表現される未来構築の物語には、
変化の一翼を担う重要な存在としての自分が、
意識されることになります。
自分が自ら参画することで「きっとある何か」が実現する。
自分は、そのために必要とされている
かけがえのない存在である、と言う関係。
それが希望の種を形成していきます。
イブラヒムさんも、自分自身の心の声をしっかり
聞き取ることで、
自身の希望の種を生み出したのだろう、と思われます。
そしてその礎が、
望ましい未来に向けた自身の行動イメージ(これこそが
希望の構築です)を、現出させていると考えるのに、
無理はないでしょう。
厳しい時代であればあるほど、
内にある声をしっかり聞くことが、求められてきます。
それが、希望を取り戻す最初の一歩だということを、
私たちはよく覚えておくべきなのだと思います。