なぜいま「物語」が求められているのか(5) 因果連鎖が見えていない危なっかしい仕事が増えてきた | チエでつながる, ワザでつながる、ココロでつながる、価値を生みだす           ~ 物語思考が世界をかえる

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この世に生まれて間もなく、人は「ものがたり」と出会い、そこで広い世界とのつながりを作ります。このblogでは、「ものがたり」と共にある人の可能性を探求していきます。

 

 

「言った/言わない」のやりとり、というのがあります。

 

「俺はちゃんと言ったぞ。お前だって分かってたはずだろう。」

「いやいや、聞いたのはそんな内容じゃなかった。…」

 

どちらも嘘は言っていないのかもしれませんが、

言った側の意図が、聞いた側に正しく伝わっていなかった、

という事が起きて、こんなやり取りになるのだと思います。 

 

会社などで時々あるトラブルです。

 

松下幸之助がどこかに、こんな話を書いていました。

 

ある日外出する先輩から、

「〇〇さんという人から電話があると思うから、

要件を聞いておいてくれ」と頼まれた。

その日ずっと注意していたが、結局電話は無く、

先輩も戻らなかったので、そのまま帰宅した…

 

これはNG!という話です。

 

電話がなかったとしても、例えば

「今日5時まで待ちましたが、〇〇さんから電話はありませんでした」

と、先輩にメモ一枚を残して帰らなければ

仕事とは言えない、(までは言っていなかったかもしれませんが)

そんな話だったと記憶します。

 

短いですが、

学生気分の新人に行動変容を迫るには、十分なメッセージでしょう。

 

“一枚のメモ”が想起させるものは、遅くなって事務所に戻った先輩が、

机の上のメモを見てうんうんと頷くシーンです。

 

そのイメージが思い浮かんでくれば、相手目線で捉えた世界が

無理なく意識に入ってきます。

 

冒頭の「言った/言わない」の争いは、こうした目線が内面化されて

いれば、かなりの確度で回避できるようになるでしょう。

 

このメッセージをパワフルなものにしている理由の一つは,

行動(しなかったこと)からの因果連鎖が示されていることです。

 

“電話番”という単発の役の完了に留めず、判断・行動が

生み出していくもの(=先輩からの信頼)を想起させるところに、

この話を印象づけるミソがあります。

 

そもそも現実の仕事(に限らず、どのようなこともそうですが)は、

様々な人々との関係性を含めた因果連鎖の中に

イメージされるものです。 

 

この因果には、外側から見えて理解できるもの ― 例えば事故が

起きてすぐに対処しなければいけない、の様なものもあれば、

 

心の中に起きていて外側からは見えてこないもの ― 例えば

“彼はこの間頼んだ仕事を一所懸命やってくれたから、

ちょっと儲けを分けてやろうと思った“

 

の様なものもあります。

 

この外見で動く部分と、心の内側で動いている部分を、

連動させつつ丸ごと伝える表現の代表が“物語”です。

 

シンプルな表現でも、文脈丸抱えでメッセージを伝えられる

ところが、物語の特性です。

松下幸之助の話は、その好例でしょう。

 

昨今は多くの仕事がシステムへの依存を強め、テンプレートも

豊富に揃い、PCやタブレットを経由したやり取りが常態化して、

こうした話の出番が失われてきました。

 

ちょっと嫌がられそうな中で無理してでも語らなければ、

こんな話が聞こえてこないようになってしまいました。

 

これは大問題だと思います。

 

マニュアルや作業手順書で仕事を覚えるのは必要なことだし、

ああしろ、こうしろと、指示を受けながら覚える仕事も

確かに存在するでしょう。

 

しかし一方で、

こんなことが起きて、その時に俺はこうやって、そしたら

こうなった、

 

とか、

 

担当したお客はこういう人で、こんな風に難しい人だったけど、

あんなこと、こんなことやっていたら

段々買ってくれるようになった、

 

の様な因果連鎖を含んだ語り(=主観的な了解を含めた体験の語り)は、

仕事の質を高めるためにも、人を育成していくためにも、

もっと見直されなければいけないと思います。

 

証拠がある訳ではないのですが、

エリートが揃う中央官庁などでの「信じられないミス」の

かなりの割合が、

因果的了解の欠落によるのではないか、という気がします。