15年 | 医食同源 byりさ

15年

引っ越しが半分終わって、ホッと一息。

 

今日で脳幹部海綿状血管腫の全摘手術から

ちょうど15年になります。

 

しみじみと今を幸せだと思います。


毎年この日が来ると、色々なことを思い出し

どうしても涙が出て来てしまうのですが、

今日は引越しの緊張感のせいか、妙に冷静。

 

 

同じ病気の方の参考になるかなと思い、

15年前のことを書いてみます。

 

 

17歳の11月、頭痛のあと右目が寄ったまま動かなくなりました。

その後、激しい運動の禁止、急激な温度変化は×、

重いものを急に持ち上げるのは×など、、、生活に制限が。

 

19歳のお誕生日の直前、旅先の軽井沢で

痛みもなく麻痺が起こり再発、即札幌に戻り入院。
 

 

両親と私が、術前に受けた説明。

ざっくりと・・・記憶が少し曖昧。

 

「このままでは再発を繰り返し、半身麻痺や死にいたる例もあります。

手術をしたとしても、成功確率は50%もありません。

成功しても外転神経は麻痺するので、目は動かなくなると思います。

目は諦めて下さい。

脳幹は多くの神経が束になっている部分。

他にも麻痺が出るかもしれません。」

 

「すぐに決断できなければ、手術日をずらしても構いません。

「ご本人の納得のいく方向で、行きましょう。」


 

説明の最中から、泣きじゃくっていたことを思い出します。

 

手術の同意書を前に、サイン出来ずにいた

両親の苦悩する顔を思い出します。


結局予定日に手術を受けましたが、それまで何日間も泣き続けたため、

目も顔もパンパンで手術に臨みました。

手術当日の朝、歯磨きしながらも泣いていた記憶があります。


髪を剃るのを嫌がる私への配慮で、上の髪を残して下さいました。

前日医師にマジックで頭に印をつけられ、

病院内の理容院で、剃ってもらいました。

大号泣しながら。

 

退院後は残りの髪を上からかぶせて、カモフラージュ。

新しく生えてくる髪は、太くてぐるぐるの縮毛で驚きましたが、

やがて自分の髪に戻りました。

 

手術は11時間。

私は寝ていただけ。

待っていた両親の方が大変だったと思います。

 

目覚めた後は激痛に次ぐ激痛。

痛み止めを打っても打っても痛かった。

 

頭には血抜きの管、その他点滴など

体に管が10本くらいついていました。

 

それでも、目覚めて一番最初に執刀医から「大成功」と言われ

「ありがとうございます。」と言った嬉しい記憶があります。

 

首の骨が手術の妨げになり、少し削ったため、

痛みでしばらく一人で起き上がることが出来ませんでした。

 

麻酔で意識のないまま、勝手に決められた姿勢で11時間いたため

全身筋肉痛に。


顔と首の境目がなくなるほど、腫れ、

自分のあまりの醜さに、鏡を見て「人間じゃなくなった」

「もうお嫁にも行けない」と泣きました。

 

もちろん腫れは、時間と共に引いていきます。


 

後遺症としては

嚥下困難で、何も飲み込めず

顔面麻痺で顔の右半分が下がり

予定通り右目は寄ったまま動かなくなり

左下肢は温痛覚障害

 

これら全てはお医者さまにとっては全て想定内。

手術は大成功と言われました。

 


 

一週間後、抜糸。

ホチキスの針の特大サイズのようなもので留められていて

1本1本、カキンカキンと抜かれます。

思ったより痛みはなかった。

 

傷口を保護するスプレーをして初シャンプー。

消毒薬で髪が黄色に染まっていたので、待ち望んでいました。

看護師さんが洗ってくれたけれど、少し怖かった。

 

今だと鍵穴手術で、小さな傷ですむのでしょうか。

 

手術したあとは、切ったあたりを触ると、頭がぷにぷにとやわらかくなります。

今はしっかりと硬くなりました。


 

 

今は淡々と回想出来ますが、

 

当時は苦しくて、何度も母に言ってはいけない言葉を投げつけました。

 

「こんな体になるなら、生まれてこなければ良かった。」

「こんな風に産んでなんて、頼んでない。」

 

「代わってあげたい。」と言ってくれた母に

「出来もしないこと言わないでよ!」と言ったこともありました。

 

言っては後悔し、それでも辛いと、

感情を抑えられず、言葉を投げつける。

そんなことが、どのくらい続いたでしょうか。

 

心配している母に向かって。

思いだすと、反省しかありません。

 

手術の説明を受けて泣いた母に

「痛い思いをするのも、麻痺するのも、死ぬのも私なのに、

どうしてママが泣くの!」と言ったこともありました。

 

思い出す度申し訳なく思います。

 

 

でも母は、その後私にどんな症状が出ても、

 

私の前では二度と涙を見せませんでした。

敵わないです、母には。

あらためて、ありがとう。

そしてごめんなさい。

 

手術の成功を聞いた父は、病棟のトイレで一人泣いたそうです。

姉伝に聞きました。

 

 

私のために、千羽鶴を折ってくださった方もいました。

7人で仲良しだった友人 たちは

お見舞いに7体のテディベアを縫ってくれました。

 

病気をしなかったら、

 両親のありがたみも

 友人のありがたみも

 健康のありがたみも

知らないまま生きていたと思います。


 

両親が、家族が、友人がいてくれることに、

生きて、色々な経験が出来ることに、

たくさんの出会いに、

本当に感謝しています。

 

10月24日が来るたび

何気ない毎日が一番贅沢でしあわせ。

と、こころから思います。

 

 

 

 

血管腫の場所が1ミリ違えば、手術の難易度も結果も違うので、

同じ病気の方に安易に

「大丈夫だから頑張って」と言うことはできませんが。

 

同じ病気だった私の存在を知ることで、

少しでも孤独感が薄れますように。


 

術後の痛みは、やがて忘れます。

 

麻痺が不自由に感じることも、

諦めなければいけないことも、

いまだに冷房や温度変化で痛む足もあります。

でも、悪いことばかりじゃありません。

 

 

いつものお友達と食事に行くと

「りさ、どこの席がいい?」と当たり前のように聞いてくれます。

 

おかげで私は見えやすい右端の席につき、

楽しい時間を過ごすことが出来ます。

 

ことばにはしないけれど毎回、

 

本当に毎回みんなのやさしさに感謝します。

 

 

朝の出勤時、急いで地下鉄の階段を駆け上がりながら

足が動くってしあわせだなーと思い、

涙がボロボロ出てくることがあります、いまだに。


 

両親に生意気なことを言いながらも

本当はたくさんたくさん感謝しています。

 

何かあったらあっただけのしあわせが、

きっと用意されているはず。


 

同じ病気の方が、もし読んでいたら

「負けないで。」って伝えたい。

 

 

 

 

 

引っ越しの最中、当時の手帳を見つけました。
医食同源 by りさ
 

 

 

今と違って一字一字丁寧に書かれた日々の予定と一行程度の日記。

 

入院で出席日数が全然足りなかったので

退院するたび学校のレポートの締め切りに追われている様子がよく分かります。

 

ぱらぱらとめくると、星野富弘 さんの詩の一節が、書き留めてありました。

 

 

 

 

 

黒い土に根を張り

どぶ水を吸って

なぜきれいに咲けるのだろう
私は
大ぜいの人の愛の中にいて
なぜみにくいことばかり考えるのだろう



神様がたった一度だけ
この腕を動かして下さるとしたら
母の肩をたたかせてもらおう
風に揺れるぺんぺん草の実を見ていたら
そんな日が本当に来るような気がした



今日も一つ悲しいことがあった
今日もまた一つうれしいことがあった
笑ったり泣いたり
望んだりあきらめたり
にくんだり愛したり
そしてこれらの一つ一つを
柔らかく包んでくれた
数え切れないほど沢山の
平凡なことがあった



鏡に映る顔を見ながら思った
もう悪口を言うのはやめよう
私の口から出たことばを
いちばん近くで聞くのは
私の耳なのだから


 

見ているだけで何も描けず

一日が終わった
こんな日と
大きな事をやりとげた日と
同じ価値を見出せる心になりたい



いのちが一番大切だと思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあると知った日
生きているのが嬉しかった



花から
とりのぞけるものはない
花に
付け加えられるものもない



いつもの道を歩けば
いつもの白い花
今日は誰も憎まなかったよ



両手に握っているものを
はなさないで
なぜ新しいものを
つかもうとするのか



使いみちもなく
放り出された木の枝
しかしその陰で
寒さをしのぐ虫がいた
拾い上げて
杖にする人がいた



あなたが最後に見た季節が
また巡ってきました
父ちゃん
気付くのが少し遅かったけれど
分かりました
詫びることもお礼をいうことも
出来なくなる別れが
あるということを



暗く長い土の中の時代があった
いのちがけで芽生えた時もあった
しかし草は
そういった昔をひとことも語らず
もっとも美しい今だけを見せている

 

 

医食同源 by りさ

 

 

 

 

あのときの自分が何を感じ、何を思い手帳に書き留めたのか、

詳しくは覚えていませんが

 

15年のときを経てこの詩と再会し、

また一から頑張ろうと思いました。

 

 

 

16年