人生とは、不毛の中から一握の希望を見出す過程を指すのか | Grünberg

Grünberg

素組・塗装派雑食モデラーが仕事の合間に模型を作るブログ
メジャーよりマイナーを、マニアックなものを

こんにちは。
 

 
前頼んでたガンプラがプレバンから届きました。
 
通常の流通が全く正常化しない今、ガンプラを安定的に確実に手に入れることが出来るのがプレバンだけというのは、最大の皮肉ですね
 
 
1体作ろうと思って組み始めましたが今日は色々やったのでこれが限界(^q^)
 
ちなみに頭部のアンテナ折っちゃいました☆
 
 
で、アフィリエイトポイントを使って買ったフィギュアがこちら。
中華版figmaみたいな感じですね
 
(あれ、俺買ったときこんな高くなかったのにorz
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
値段の割に決して悪くはないとは思うんですけどねぇ
 
 
余談
 
 
朝に昨日残していたONE PIECE FILM REDを観に行きました
本土上映時のらぷたんさんのツイートでなんとなく知ってはいたんですが、ウタのキャラに改めて愕然としました
 
久しぶりにONE PIECEの映画観ましたけど、昔みたいに楽しめました
 
勧善懲悪は良いですねぇ
 
 
映画上映直後にはマッサージを予約していたので行きました
 
ついつい模型の現状を話しすぎてちょっと反省しましたが、全身をほぐしてもらいました
 
ハンドケアもしてもらいましたが、仕事と趣味で手を酷使するので、本当に良かったです
 
 
おまけ
 
さて、タイトルはなんぞと思った方がほとんどかと思いますが・・・
 
どこかで聞いたのですが、人間が絶望するのは、希望を失った時だと。
 
軍事的な先例において、寡兵で大軍を打ち破る例はいくつかあるが、それも希望を失わなかったからではないかと。
 
韓信の背水の陣は寡兵が大軍に立ち向かった有名な例だが、それは別働隊が空になった敵の砦を奪取することを前提としている。
 
別働隊が目的を果たすという確信があったからこそ、寡兵が河を背にして大軍と戦えたわけだ。
 
関東管領・扇谷上杉軍の大軍が川越城を包囲した川越夜戦においては、油断から弛緩した大軍を城外からやってきた後北条氏の別働隊と併せて叩きのめした。
 
ドイツ騎士団とポーランド・リトアニア大公国の全面決戦となったグリュンヴァルトの戦いにおいては、撤退したと見せかけたリトアニア軍の騎兵隊がドイツ騎士団の背後から強襲し挟撃したことによって打ち負かしている。
 
島津軍が用いた釣り野伏は、伏兵への誘引が前提となっている。
 
このように、寡兵が大軍を打ち負かした例は枚挙に暇がないが、それが出来たのも、寡兵が希望を失わないだけの軍事的施策があったからであって、歴史的に見てそうした施策のない寡兵は大軍の下に徹底的に滅ぼされている。
 
一般に、大軍の指揮は難しい。大軍ゆえ油断が生じるし、様々な立場の違いから対立が鮮明化する場合もある。
 
だが、統制の取れた大軍は別である。それは、豊臣氏による各地の征伐にも現れている。
 
それは、寡兵がいくら希望を持ったとしても覆すことは叶わない。
 
 
現代日本に生きる我々には、命をかけなければならない機会はほとんどないだろう。
 
だが、希望の喪失は容易に起こりうるし、それが我々の生命を危機に晒すことも十分にあり得る。
 
我々にとっては、混沌たる現代に少しでも希望を見出して生きていくことこそが戦いなのかもしれない。