アフガニスタンで農村復興のため水利事業に携わっているペシャワール会の中村哲医師の講演会が8月30日、宇部市の渡辺翁記念館で開催された。山口大学医学部最大の学生団体である「山口大学国際医療研究会」の学生たちが主催し、約1000人の聴衆が詰めかけた。米軍のアフガン空爆の下でだれが犠牲になり、どうなったのか。現地の実際を通して安倍政府の進める安保法制がいかなるものかを浮き彫りにするものとなった。以下、講演内容を紹介する。掲載する写真や地図は講演後に中村医師より提供していただいたもの。

 農業軸の多民族国家 高山の水で豊かな実り

 アフガニスタンは日本人にとってもっともわかりにくい国の一つだ。中近東の乾燥地帯の東の端にある中央アジアの一角、ヒマラヤ山脈を西にたどったところにあるヒンズークシ山脈という7000~6000㍍級の高い山山の辺りがアフガニスタンだ。地理的に東西の交通の要衝である。
 ヒンズークシ山脈の山山が国土のほとんどを占め、2000万~3000万人といわれる人口のほとんどが農業で生計を立てている。アフガニスタンには「金がなくても食っていけるが、雪がなければ食っていけない」という諺がある。高い山に降り積もった雪が夏に少しずつ溶け出して川沿いに豊かな実りを約束する。人も動物も、このおかげで何千年、何万年と命をつないできた。降雨量は日本の20分の1とか50分の1といわれ、日差しは強いが、水さえあれば植物の繁殖も旺盛で、かつては100%近い食料自給率を誇っていた農業国である。
 アフガニスタンは多民族国家だ。シルクロードの時代、「民族の十字路」といわれるほどいろいろな民族が通過し定住した。谷が深く、谷ごとに違う民族が住んでいるといってよく、「アフリカ人以外ならすべてアフガニスタン人に化けられる」といわれるほどで、ほぼ独立した自治体制を営みながら、その集合体としてアフガニスタンという国を形作っている。20以上の民族・言語が錯綜しながら一つのまとまりをつくる地域であることを理解してほしい。
 よくいえば自治性が非常に濃厚であり、悪くいえば割拠性が強い民族を束ねるのがイスラム教だ。各村や町にもモスクがあり、ときには行政よりも決定権を持っている。目にするニュースでは血なまぐさい印象が多いかもしれないが、実際にはそれほど変わった人たちではない。アフガニスタン人は私が見る限りでは世界でももっとも保守的なイスラム教徒で人人は戒律を律儀に守る。
 貧富の差は甚だしい。現地に行って医療人としてまず無力感を感じるのは、お金持ちはちょっとした病気でもロンドン、パリ、ニューヨーク、東京に行って治療を受ける一方で、99・999%の人人は数十円のお金がなく、薬も買えず命を落としていることだ。

 診療所作ったが… 水と食料こそ死活問題

 私たちの活動の始まりは、1984年にペシャワールで発足した「ハンセン病根絶5カ年計画」に参加したことだった。当時、世界的なハンセン病根絶計画が進められており、その一環として活動を進めていた。ハンセン病は合併症が多く、さまざまな専門医の診療が必要で、その治療センターをつくるのが私の任務だった。ベッド数はわずか14床、耳にすると怪我をする聴診器が一つ、ピンセット数本。まともな医療器具はなかった。消毒設備もないため、ガーゼの消毒はオーブントースターを使っていた。
 私たちの活動は一見、医療とは無関係な部分にエネルギーを使ってきた。なかでも今ももっとも気を遣っているのは「いかにして患者の気持ちを理解するか」ということだ。外国人が犯しやすい間違いだが、見慣れないものを見ると、単なる違いを善悪や、「遅れている」「進んでいる」、優劣で見て裁いてしまう。そして現地と衝突し、帰らざるを得なくなるのを目にしてきた。女性のかぶり物がどうかなどはその国の人自身が解決することで、私たちは現地の文化・宗教・慣習に関しては好き嫌いがあろうと、できるだけその文化の枠内で解決することを鉄則として現在に至る。
 私が行ったときはアフガン戦争の真っ只中。約10万人のソ連軍が侵攻していた。その後約10年間内戦が続き死亡者は200万人、国民の10人に1人が死に、600万人が難民になった。十数年前からはアメリカ軍、NATO軍の侵攻でさらに混乱が続き、「戦争」が現地民にとって非常に切実な問題となっている。
 内戦状態のなか私たちは難民キャンプで診療をおこなっていたが、とても間尺に合わず方針を大転換することにした。「ハンセン病根絶計画」は先進国側が考えたアイデアであり現地では非常に無駄が多いものであった。ハンセン病が多い地域は同時に腸チフス、結核、デング熱、ペストなど、ありとあらゆる感染症の巣窟だ。医療人のモラルとして、マラリアで死にかけている患者を「ハンセン病ではないから診ない」というわけにはいかない。私たちは、内戦が下火になった暁には、ハンセン病の多発地帯であり他の感染症も多い山奥の地域に診療所をつくり、ハンセン病をさまざまな感染症の一つとして区別なく診るという方針に向け、動き出した。
 当時、内戦の真っ只中であったがパキスタン管内に入ることもあった。国は違えど同じ民族が住んでいるので、自由自在に山越えをしながら人人との付き合いを深めた。
 ソ連軍は10年もしないうちに撤退し、私たちは次次に診療所を開設した。そして1998年4月に病院を建て、ここで責任を持ってわれわれの患者を診ることにした。さあ今からというときにアフガニスタンは世紀の大干ばつに見舞われた。ユーラシア大陸を襲ったこの干ばつは今まで人類が経験したことのない規模で進行中だが、とくに2000年5月の干ばつがひどいものだった。なかでもアフガニスタンはもっとも激烈な被害を受けており、世界保健機関(WHO)は、“国民の半分以上の1200万人が被災し、飢餓線上の国民が約400万人、餓死線上が100万人である”と警告を発表した。当時タリバン政権によって内乱が収拾され、曲がりなりにも治安は回復していたが、政治的な理由でついに救援はあらわれなかった。私たちのまわりで、緑があり人人が生活していた村が、1年足らずで一木一草も生えない沙漠になって次次消えていった。これがアフガン人にとって現在もっとも深刻な問題となっていることを私は伝える義務がある。
 数十万㌶が沙漠化し、多くの難民が発生した。診療所には若いお母さんたちが子どもを抱き、何日もかけて歩いてくる。生きてたどり着くのはまだましで、たどり着いても順番待ちで並んでいるあいだに腕の中で冷たくなっていく光景はごく日常的に見られるものだった。
 アフガニスタンは自給自足の国だが、水がなくなれば汚水を口にして下痢になる。作物も育たないため慢性的な栄養失調に陥り、簡単な病気で命を落とす。清潔な水と十分な食べ物さえあれば、ほとんどの患者が死ぬことはなかったと思う。私たちは「いくら医療器具、薬があっても役に立たない。飢えや渇きは薬では治せない」と考え、2000年8月頃から「清潔な飲料水と十分な食べ物を」を掲げて診療所のまわりの枯れた井戸を掘り始めた。その後活動は広がり、5年間で1600カ所、清潔な飲料水を確保することができた。数十万という人人が村をあげて働き、大きな事業に発展した。
 もう一つの課題は農業用水を確保することだった。伝統的なカレードという横井戸で地下水を引いて水を確保していたが、それが枯れ、再生してもまた枯れるのをくり返し、約40個再生したが、地下水利用の限界を知った。

 女・子供殺した米軍 空爆の中で食料を配る

 2001年9月11日、ニューヨークの同時多発テロが起き、その翌日から国際社会と呼ばれる国の人人が、「アフガニスタンは首謀者をかくまった」「報復爆撃しろ」といい始めた。私たちは「今アフガニスタンに必要なのは水と食料であり爆弾の雨ではない」「アフガニスタンは一つの国ではなくいろんな国の寄せ集めであり、政府が悪いからアフガン国民すべてが悪いというものではない」と主張したが、大きな世論にはならなかった。しかし国外の人人、日本全国からおそらく数十万人が私たちに賛同して募金に協力してくれ、食糧支援に従事した。
 10月になって空爆が実施された。現地は冬で、首都カブールは、元からいた市民ではなく、田舎から逃れてきた干ばつ避難民であふれた。その百数十万人のうち約1割は生きて冬を越せなかった。私たちは小麦粉1800㌧を運び入れ、職員20人で配布した。
 空爆は激しかった。日本人の空爆の記憶は、おそらく太平洋戦争で途切れているが、最近の戦争はあれ以上に高性能で、巧妙で、非人道的な爆弾が使用される。ボール爆弾や、人間だけを死傷するクラスター爆弾が大量にばらまかれた。一方で「人道的」支援と称して食料を投下するが、クラスター爆弾とまったく同じ黄色い包みに食料を入れて落とす。それを拾いに行った子どもたちが犠牲になるなど、犠牲になったのは子どもや女性、お年寄りなど弱い人人だった。
 日本に帰ってきたときは異様な雰囲気だった。普段は知らないカブールやカンダハールなど名前まで出して「次はどこがやられるのか」と、まるでゲームのように見ていることに非常に不愉快な思いがした。軍事評論家が出てきて「アメリカがおこなう空爆はピンポイント攻撃であり、悪いやつだけをやっつけて、一般人には手を加えない人道的な攻撃だ」といっている。「そんなに安全な爆弾ならその下に立って評論をしてくれ」といいたかった。日本人が見せられたのは爆弾を落とす側の映像で、落とされる側の映像はほとんどなかったと思う。世界的に戦争が正当化されるなかで、だれが犠牲になっていったかを考えると収まらないものがある。
 無差別爆撃のなか、食料を配ることは至難の業だった。職員20人が1発の爆弾で全滅する可能性は十分にあったため、3つの部隊に分け、たとえ1チームが全滅しても他の2チームが任務を敢行するようにした。活動の底力となったのは同胞のためには命も省みない勇敢なアフガン人であり、これによって私たちの活動は支えられた。

 米軍の進駐後 麻薬と売春の自由現出

 タリバン政権が11月になって崩壊し、米軍の進駐が始まった。世界中で「極悪非道の悪のタリバンをうち破り、絶対の自由と正義の味方、アメリカおよびその同盟軍を歓呼の声で迎える市民の姿」「女性抑圧の象徴であるかぶり物を脱ぎ捨てて、自由をうたう女性たちの姿」の映像が、くり返し嫌というほど流された。この戦争に反対していた人も「そんな悪い人たちがやられるのならよかったのではないか」となり、アフガニスタンは忘れ去られていった。
 実際には何ができていったか。それはケシ畑だ。タリバン政権はよくない面もあっただろうが厳格な宗教制度によってケシ栽培を徹底的に取り締まり、ほぼ絶滅していた。それが盛大に復活し、数年を待たずしてアフガニスタンは、世界の麻薬の90%以上を供給する麻薬大国となった。
 解放されたのは「ケシ栽培の自由」「女性が外国人相手に売春をする自由」「働き手を失った人人が街頭で乞食をする自由」「貧乏人が餓死する自由」だといって間違いではないと思う。実際に当時、飢餓線上の人口は400万人といわれていたが、現在760万人に増えている。アフガニスタンはますます窮地に立たされている。

 「緑の大地計画」 命綱の用水路の建設へ

 戦争とはおかまいなしに沙漠化はどんどん進行し、今も進行中である。まずはいかにして食料不足を解決するかを第一にあげ、「緑の大地計画」を立てた。われわれは医療団体だが、診療所を100戸つくるよりも1個の用水路をつくった方がはるかに効果が大きいと考え、「沙漠化で無人化した村村の復興」をスローガンに、2003年に用水路の建設に着工した。
 最終的に現在の全長27㌔㍍、灌漑面積3千数百㌶の約16万人が生活できる用水路が完成したが、12年前は途方に暮れた。計画をつくるのは非常に簡単だが、実際にやってみるとさまざまな問題に遭遇した。意気込みはあるが、まず道具がない。ツルハシとシャベルのみだ。もう少しお金を貯めて立派な日本の技術、技術者を呼ぶことも考えたが、長い目で見て、だれがその水を使い、用水路を維持管理するのかを考えたとき、現地の人人でも建設でき、現地の人たちの手で維持され、何世代にもわたって使える施設にするには、現地の人の手で直せるものでなければならなかった。
 日本とアフガニスタンは、非常に異なる国のように見えるが、水に関しては非常に似た点が多い。どちらも山の国で急流河川が多く、夏と冬の水位差が激しいこと、山間部の狭い地域や小さな平野での農業が主流であり、水をとり入れる技術に似た点がある。現在の農村は日本の中世の農村部の自治制と似た点がある。このため日本の昔の技術をアフガニスタンにとり入れようと考えて探し回った。
 私の生まれ育った福岡県の筑後川は「日本三大暴れ川」と呼ばれ、治水のための古い施設がたくさん残っている。日本も数百年前まで渇水、飢饉、洪水は日常茶飯事で、そのたびに何十万、何百万という犠牲者を出しながら現在の田園地帯がつくられてきた。
 築後川の山田堰は220年前につくられ、現在も現役として多くの地域を潤している。「これだ」と思った。当時は重機やダンプカーなどない。「私たちにもできないことはない」と積極的にこの技術をとり入れていった。
 日本の堰を模倣するといっても、インダス川の支流は日本の大河川の5倍、10倍の規模。この地理条件に合わせ、約10年の歳月をかけて最近になってようやく成功するようになった。
 護岸技術もむやみにコンクリートを用いるよりも昔の技術の方が簡単であると同時に、多少崩れてもすぐに補修できるという点で優れていた。「蛇籠」と呼ばれる鉄線で組んだ籠に石を詰めて積み上げ、そこに柳の木を植えると非常に強靱な用水路ができる。昔の人の知恵があのインダス川の激流を見事に制した。
 コンクリートの打設はだれにでもできないが、石を積み上げるのはアフガン人ならだれでも上手だ。これも現地に非常に適した方法だった。とにかく自分たちでつくることを私たちの鉄則とした。揚水設備も、電気が使える地域は数%で、それもときどき電気が来る状態だ。油や電気を使わない水車を使い、水利施設も充実していった。
 用水路が次次とでき、10年ほど前から用水路が延びるたびに緑地が蘇り、荒れた村村が回復して多くの人人が村に帰ってきた。
 最後にたどり着いたのがガンベリ沙漠で、ここが一番の難航地だった。工事は真夏で、摂氏53度にまでなる。数百人の作業員のうち、毎日十数人が熱中症で倒れる。それでも彼らが作業の手を休めなかったのは「1日3回食べること」「故郷で家族と一緒に生活すること」、このたった2つの強い願いがあったからだ。それさえもかなえられずに難民化した彼らにとって、この用水路ができなければ、元の難民生活が待ち受けている。「なんとか生き延びたい」という健全な意欲が、用水路建設の大きな底力となった。2009年に第1回目の試験的な通水が成功したときに彼らは大喜びし、開口一番「先生、これで生きていける」といった。用水路は地域の人人には欠かせぬ命綱として存在し続けることとなった。
 しかし水を引くだけではだめで、砂嵐をいかに防ぐかが次の問題となった。防風林をつくることにしたが、これも年月がかかる。やっと2、3年前に林に成長し、約80万本の木が砂嵐を防いでいる。現在も着着と事業が進んでいる。

 数十万人の生活保障 農業回復が平和の基礎

 水が来れば作物をつくることができ、水辺には動物も集まる。エネルギー問題も一挙に解決した。日本でエネルギー問題といえば原発や電力、石油の話が出てくるが、現地で必要なのは調理や防寒に使う薪だ。80万本の木木から出る大量の間伐材を利用することで、この地域ではほぼ自給可能になりつつある。
 人が集まれば諍(いさかい)も起こる。それを解決するよりどころとしてモスクも建設した。われわれが活動する地域はもっとも豊かな地域の一つとして見事に復活した。かつては一木一草生えない荒野であったことを知る人はだんだん少なくなってきた。用水路は全長27㌔㍍、灌漑面積三千数百㌶、約16万人の人人の生活の復興に留まらず周辺地域にも繁栄が広がりつつある。他の地域に訴えていることは「戦争する暇があったら食料を自給する努力をせよ」ということだ。
 干ばつは進行している。温暖化によってヒンズークシ山脈に積もった雪が春先から夏にかけて一気に溶けるため洪水が起こり、低い山山の地下に水が染みこむ余裕がなく、万年雪が減っているために地下水が減ってカレーズが枯れ、大河川では川の水位が下がって取水できなくなり干ばつが起きる。想像もしないような大洪水が起きると同時に渇水も起き、そのために難民が増える。国外に出ても町に出ても職はなく、やむを得ず武装勢力や政府の傭兵となる者が増え、ますます治安が悪化する悪循環が進行している。
 このなかで私たちは、現地に適した取水技術の確立・拡大を目指して活動を続けている。暴れ川を制するには自然と上手に折り合いをつけることが重要で、洪水が来ても被害を最小限に抑え、渇水になってもある程度の水をとり込む。昔の人の技術、考え方をとり入れて活動を進めている。安定した水の供給によって農業を回復させ、難民を村に呼び戻すことをめざして少しずつ計画は進んでおり、1万6500㌶、6十数万人が生きていける環境が整っている。これをモデルに広げたい。
 政治にしろ戦争にしろ人間と人間だけの問題にとらわれてしまうが、人間と自然が折り合って生きていくこと、これを誤ると学者の中にはこのままいくと地球は一世紀も持たないという人もいるほどだ。危機感を持ち、われわれはどう生きていけばいいか、医療の整備、平和、戦争を考えることで私たちに非常に大きな示唆を与えてくれるのではないかと思う。

 ペシャワール会 中村哲氏講演より   2015年9月2日付



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