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マレットの囁き

ご訪問ありがとうございます。

英国エリザベス女王の国葬が

 

議会の決議を経て実施されることについて、

 

やっと自民党内からも

 

独断で国葬と決めた内閣に苦言を呈しているとか。

 

今回の問題点は内閣府設置法第3条の2

 

「内閣府は、皇室、栄典及び公式制度に関する事務その他の国として行うべき事務の適切な遂行」

 

とあるのを、法的根拠としていますが、

 

条文を見れば明らかなように、

 

「既に国事と決定されたことに対して」

 

事務の適切な遂行を行うもので、

 

「国事とする」と決定する権限があるとするのは

 

明らかに行き過ぎた拡大解釈でしょう。

 

国事を内閣が独断で決めて良いなら、

 

それはもはや民主政治ではなく

 

専制政治になってしまいます。

 

今回の問題点も、まさにここにあります。

 

形だけでも国会を召集して議会にはかるという

 

民主政治に必要な手順は踏むべきなのです。

 

こんなことにも気付けないようでは、

 

故安倍氏も草葉の陰で泣いていることでしょうね。

 

 

故安倍氏とは幹事長時代ですが、小会合に同席しました。

 

故安倍氏の政治理念は賛同できませんが、

 

私利私欲の無い本物の政治家だったと思います。

 

心より故人のご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウクライナ戦争の最大の過ちは

 

戦争を回避する対話の欠如です。

 

戦争とは『非人道的な殺戮』に他なりません。

 

「武器の供与」とは『人殺しの道具の供与』です。

 

戦争は現場の兵士や将軍が始めるものではありません。

 

戦場とは無関係の政治家が始めるのです。

 

戦争を始めた政治家に煽られた国民が

 

戦争という殺戮を支持する結果となるのです。

 

これは何もロシアやウクライナに限ったことではありません。

 

どの地域でも起きうることなのです。

 

若い世代に、戦争もやむなしとの意見が多くなってきている現状には、

 

深刻な危機感を覚えます。

 

何故なら、いざ戦争になった時に戦場に行くのは、

 

戦争もやむを得ないとした若者たちだからです。

 

戦場に行って戦争の悲惨さを身を持って体験した時には

 

既に遅いのです。

 

『生命の尊厳』、『世界に一つしかない命』

 

それが通用しないのが戦争に他なりません。

 

ウクライナ戦争等でその現実を目の前に突き付けられても、

 

実際に現場に行ってみないとその惨状は分からない。

 

いくら国際条約で「人道主義」を掲げても、

 

実際の戦場ではそんなことに構っていられません。

 

何故なら、自分の命がかかっているからです。

 

それがいかに非人道的行為でも、

 

自分の命以上の事ではないのが戦場なのです。

 

「殺さなければ殺される」

 

これが戦場での原理原則です。

 

これが戦争を『悪』とする根拠です。

 

「最も大切な命を奪うことが必要とされる」

 

まさに戦争こそが「生命の尊厳」の対極にあるのです。

 

「命が何より大事」と考える人々は

 

最も大事な命を奪う戦争こそ

 

『人類最大の悪』と声を大にして訴えるべきでしょう。

 

戦争につながる『軍事同盟』も

 

自らの命を脅かす存在であることを

 

世界の人々が明確に認識すべき時に来ています。

 

日本でも、北朝鮮のミサイル発射実験を脅威というのであれば、

 

何故早急に日朝平和友好条約を締結しようとしないのか。

 

また、日本が日中平和条約違反を起こした尖閣諸島についても

 

平和友好条約締結国を仮想敵国とみなして脅威とするのは

 

全くおかしなことだと思う日本国民は

 

いったいどれほどいるのでしょうか。

 

まともな判断を、マスコミを使って狂わされているのは

 

何もロシアや中国だけではありません。

 

物事の本質を見極めることは、確かに難しいですが、

 

情報化社会となった現代では、

 

本質を見極める目を持つことが求められているのです。

 

何が当たり前なのかを基準として見れば、

 

意外と本質が見えてきたりします。

 

『当たり前』とは何かを

 

今一度見つめ直してみてはいかがでしょうか。

 

人気ドラマ『相棒』で

 

素数を題材にしたものがありました。

 

もし、素数の周期性(一定の法則)が解明されれば、

 

現在使用されているすべてのセキュリティシステムは崩壊します。

 

ドラマでは、その法則を立証してしまった数学者が、

 

そのことを知って広く世間に公表しようとした

 

友人の数学者を殺害してしまい、

 

自らの発見も燃やして消去してしまいます。

 

実はこのドラマは、まさにアインシュタインを

 

まるで鏡のような反対の立場から、

 

その本質をそのまま描いたとも言えるのです。

 

アインシュタインは、自らの画期的な発見を、

 

結局は世界に発表してしまいました。

 

それが最終的には、日本の広島、長崎への

 

原爆投下による大量虐殺を始めとして、

 

現在も世界を人類絶滅の恐怖に陥れる、

 

膨大な核兵器の脅威となってしまいました。

 

更に平和的に利用とした原子力発電でも、

 

チェルノブイリだけでは済まず、スリーマイルや

 

遂には福島原発のような、

 

極めて深刻な被害をもたらす災害を、

 

引き起こす根本の証明となってしまったのです。

 

中でも福島原発の事故は明らかな人災なので、

 

その深刻度は過去の例には比すべくもありません。

 

確かにアインシュタインの相対性理論は

 

それまでの科学の考え方を根底から変革し、

 

科学の急速な進歩をもたらしました。

 

しかし、過去のノーベルのように、

 

画期的な発見が必ずしも人類のためにならないことを

 

アインシュタインも科学者として

 

自らの発見を謙虚に受け止めるべきではなかったか。

 

これは極めて難しい問題です。

 

アインシュタインは、それまでの科学的発見とは、

 

著しく異なっていた事実があります。

 

それは、それまでの科学的発見、発明は

 

すべて軍事開発に拠るものだったからです。

 

戦争をより有利に勝利する手段として、

 

軍事科学に予算が配られ、軍事技術の開発が促進され、

 

結果として科学の発展がありました。

 

これに対して、少なくともアインシュタインは、

 

軍事分野などは視野に入れず、

 

純粋に科学を追求した結果を公表したのです。

 

それでさえ、結果として核兵器に転用され、

 

放射性物質の有効利用法も確立されないうちに、

 

経済的に有効な活用として、

 

電力等のエネルギーに使用されてしまいます。

 

このような歴史を振り返るとき、

 

たとえ科学者といえども、

 

人間の本質たる欲望を無視してはいけない。

 

むしろ科学者は、その責任から

 

真っ先に人間の欲望の本質を学ぶべきである。

 

人間の欲望を学んだ科学者は

 

自らの利よりも、人の命の重さを知ることになるはずだからです。

 

「人の命を守る」ことを科学の根本とすれば、

 

研究の方向性を誤ることはなくなるでしょう。

 

アインシュタインでさえ、このことを見失ったのです。

 

その危うさを、「素数の解明」を題材に取り上げたドラマ『相棒』は、

 

製作者がそこまで意図していなくても、

 

価値ある問題提起だったと思えるのです。

 

どんな画期的な発見、発明でも、

 

その結果は使用する人間によって決まる。

 

相対性理論を公表したアインシュタインも、

 

自らの理論を利用する人間にまで思い至らなかったことを

 

人生の痛恨事として悔悟の晩年を過ごすことになってしまった。

 

『人の欲望』を真剣に学ばなければ、

 

どんな科学的発見も悪に帰す。

 

科学者は、まず「善悪の基準」をどこに置くべきかを

 

しっかりと学ぶべきであることを提言します。

 

そのうえで、科学を利用する我々も、

 

欲望に支配された生活になっていないかを、

 

常に見直す必要があります。

 

物価が上がれば消費を抑える。

 

こう言えば当たり前に聞こえますが、

 

では、実生活で、このように出来るでしょうか。

 

「人の欲望の本質」は、実はここにこそあるのです。

 

簡単な例として、

 

早歩きなら15分で行けるお店に、車で行ってませんか。

 

ということです。

 

歩けば健康の足しになりますが、

 

車を使用すれば温室効果ガスを出して

 

環境破壊をすることになります。

 

地球温暖化が深刻な問題とされているのに、

 

個々人のこうした行為が環境悪化を促進しているのです。

 

経済優先の政治家どもは、こんなことは絶対に語りません。

 

そうした政治家にしてしまったのも我々国民です。

 

それが主権者の権利と責任ということです。

 

これらを今一度考え併せて、

 

自立した主体性のある主権者となっていこうではありませんか。