人が持つコミュニケーションの力を磨く・鍛える・呼び覚ますーコミュニケーション・ワークス公式ブログー -2ページ目

 

 

 


F1種の広がりによって

「在来種」「固定種」と呼ばれる昔ながらの作物はどんどん作られなくなっている、

(というか絶滅の危機?)
ということは、知っていたのですが、
先日こんなものを見つけ、早速買ってみたところなのです。

 

「伊敷(いしき)長なす」のたね。

 

 

 

 

「伊敷長なすは、昭和40年ごろまで鹿児島市の伊敷町などで盛んに生産されていた伝統野菜です。
生産が早いナスと比べると、中身がつまり、味は濃厚です。
ところが今はこうした伝統野菜が消滅の危機に直面しています。
そこで玉江小の子供たちと一緒に復活プロジェクトに取り組みました」
(鹿児島大学教育学部の技術専門教員 中野さん談)

 

 

 

ちなみに「伊敷(いしき)」は鹿児島市内にある地名で、

「伊邇色(いにしき)神社」

という神社が氏神様となっていることからも、相当昔からある地名かと。

(全国区の民謡「おはら節」にも、出てきますしね)

 

 

 

さて、話戻って。

 

その作物が作られなくなる、ということは、
種子を採取できないということで、
早晩、種子自体も無くなってしまう。
その作物自体が無くなってしまう。

 



「種子も消滅」。

 



なんと言いますか、こういう状態はなんだか怖い。

とても怖い。

 

 

 

何にしても、
(先日の「秋田のナマハゲ考」でも書きましたが)
https://commu-w.net/2024/03/24/なまはげの社会適応/

 

 


「消滅する」
「昔から受け継いできた繋がりが切れる」
のは本当に簡単なことで、ちょっとしたことでそうなってしまいます。
(伝統文化、精神の全てにおいて)

 

今の時代は特に。

 

 

 


だからこそ、そこには
「知ること」「意識すること」
そして
「伝えること」
が必要になってくると思うのです。
 

 

 



そういった意味で、
この伊敷長なすを「伊敷の子どもたちが」再び復活させた、ということは、
とてもすごいことだな、と思えるわけです。
(「伊敷長なす里帰りプロジェクト」と銘打ったプロジェクトなんだそう)
 

 

 

 


地域のみなさん。
「伊敷長なす」の種子を買ってください。
そして、子どもたちに「すごいことやり遂げたんだね!」
と声をかけてください。
「ありがとう」と言ってあげてほしいなあと。

 

 

 



伊敷長なすは、
「こくがあってぎっしりと実が詰まっている感じがして、とても美味しかったです」
「僕はなすが嫌いだけど、伊敷長なすは美味しく食べることができました」
なんだそう😊

(と、子どもたちの感想に書いてありました)
 

 

 

 



土地の個性、風土に合わせて、
美味しくなるようにと先人たちが時間をかけ、
養い育ててきた伝統野菜。

 



「そこに根付いたことに意味がある」
「その環境ならではの空氣、養分が『それ』を作った」
「そこだからこそ、この素晴らしい個性が育った」
 

 

 



自分たちの「根」はどこにあるのか?
わたしたちが忘れてはならない大切なことは、
野菜でもなんでも、皆同じであるように思えるのです。

 

 

 

 

「伊敷長なす里帰りプロジェクト」をやっている「鹿児島市立玉江小学校」はこちら。タネも買えます。

 

 

 

 

 

 


秋田で仕事をしていた姪からのお土産が届き、
スモーキーで味わい深いいぶりがっこや


「かき飴」
(牡蠣エキス入りの飴。甘いのに海産物の味もちゃんとする😳)

など、
南国人からすると大変珍しいものがたくさん入っていたのだけど、
その中でも見た目のインパクト大(だい)!だったのが、

『なまはげのおくりもの✨✨』

という秋田のお米で作ったサブレで、
ふわっと軽い味で大変味しかったのですが、

 

 

 

 

 


偶然にもその日の夜、
「なまはげの社会適応化」
というのを番組でやっており、
なまはげサブレの興奮も相まって、興味深く見たのでした。




「泣く子はいねが〜👹」

と、大晦日の夜、家を回り、
子どもに大きなトラウマを残す「ナマハゲ」。
(確かに、映像に残る昔のナマハゲは激しい!これは子どもは怖いだろうなあと😊)



これが、時代とともに、今風にいうと
「コンプライアンス遵守(笑)」

な言動に変わり、
(入り口でインターホンを押し「はいってもいいですか?」と聞き、
靴を脱いで揃えて上がり、そこから「泣く子は…」となまはげモードに入る^^)

担い手不足に伴って、外国人のなまはげが生まれ、

さらにはコロナによって、
「窓越し、ガラス越しのなまはげ訪問」

に至る、という…

まさに、社会適応化の「歴史」。



お笑い芸人さんの番組なので、
その「変遷」につい笑ってしまうのだけど、
その向こうには、
どうにかして「ナマハゲ文化」を伝承したい、
しなければ、という男鹿半島の大人たちの願いと工夫がひしひしと垣間見え。



サブレの袋のインパクトある可愛らしいナマハゲを見ながら、
「こんな苦労と歴史があったのか…」
と、色々と感じ入ってしまいました。





ここでふと思い出すのですが、長崎くんち。
たった2年休んだだけで(コロナで)
「伝承」が危うくなってしまった町がある、という話を思い出し。
(知識と技術を「つなぐ」ために大変な苦労をすることとなった人たちの話を見たんでした)



なくなってしまう(途絶えてしまう)ということは、
食であっても風習であっても、「モノや行事がなくなったね」では終わらない。


とても多くの、たくさんのもの…
つまり、そこに込められ、先人たちが大切にし、
なんとか繋いできた、

「心」「価値観」「精神性」までもがもはや伝わることのない、
失われたもの、になってしまうということなのだ、
(だからこんなに努力しているのだ)



と、そのくんちの番組を見た時に、
強く感じたのでした。





さて。
これから、ナマハゲにどんな将来が待ち構えているのか?
それは分かりませんが、
それでも。

これからもナマハゲに幸あれ!
男鹿半島の皆さんに幸あれ!
日本&世界中の、
「自分たちの土地の伝統、文化、風習」を大切に守り伝え、育て続けるすべての人たちに
(つまりわたしたち一人一人の中にあるその心とDNAに)
幸あれ!



と心から思ったところです。

 

 


 

 

 

 

 

 

という言葉は(タイトルの)

徳川慶喜が大政奉還をした際に、龍馬が慶喜に対して言った言葉、らしいんですが。

 

 

 

 


知り合いがPTA活動や地域の活動に尽力していることは
結構前からFacebookでおりに触れ見ていたのだけど、その知り合いから、
「市議を目指しているので、よかったら応援してください」
のメッセージが来たときに、
頭の中にぽやん…と浮かんだのは、



「…かくすればかくなるものと知りながら…」



ご存知の通り、吉田松陰の歌で、
「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」
(こうすればこうなるとはわかっているけれど、
やむにやまれぬ思いが私を突き動かすのだ)





議員になるって、
わたしのイメージは「盆も正月もない24時間の仕事」。
自分の全人的なもの、
全てをかけて取り組まねばならない仕事であって、

本人だけでなく、
家族全員の在り方も全方位に向けて問われる。
そんなものはもはや「仕事」という言葉でくくれるものではない。

なので、



「ああ、本当に、やむにやまれぬ思いがあってのことなのだな」




と素直に思ったのでした。
そして、次に浮かんできた言葉が、タイトルの言葉だったわけです。





知り合いは、きっと「やるだけやった」んだろう。
自分の立場で、学校と、教育と、子どもを育むべき地域に関わって、
やるだけやって、
そして最終的に選んだ道なのだろう、
と。





ちなみに。
知り合いが「市議を目指したい」と言ったときに、
2つの反応があったそうで。



一つはわたしと同じ。
「よくも断じ給へるものかな」
な反応。



もう一つは、
「いいねー。当選したら何にもしなくてもお金入ってきて生きていけるもんね」
的な反応。


それを聞いて、改めて驚いたんですが。
(へええ〜😳❗️と)






さて。
「よくも断じ給へるものかな」。



誰の胸の中にも、
今の世の中への憤り、
「ああ、もっとこうであったら」
「人が自然に、健やかに、ただ幸せであれる状態はどこにある?」

(そうであれば、これからこの世界を生きていく若い子達に、
「どうだ、生きるって素晴らしいんだぞ!」といろんなものをもっと胸張って手渡せるだろうに)

という思いがあると思います。
わたしの中にも。





そんな中。
自分には出ようもない勇氣の選択をした人に対して。
「すごいよね」
「頑張って」
という素直な感嘆の気持ちがこの文章を書かせているわけなのですが。





そして、その「思い」が実をむすんで欲しい。
勇氣を出して、無私の心を持って「断じた」人たちが、
その使命を全うできる場へと、
願わくば運んでゆかれますようにと、
これも素直に願っているところです。








(写真は仙巌園からの山桜。
この季節に思い出す歌といえば、

「敷島の やまとごころを 人問はば 朝日に匂ふ 山ざくら花」

というのもありますね。本居宣長の。
ーわたしの中にある日本人の心とは?と問われたら、
それは朝日に美しく輝く山桜に感じ入るような心、だろうかー

というような意味)

 

 

 

 

 

最近心が動いたことに、
①宮崎駿は自分のために(自分を解き放つために)アニメを作っている。
②久石譲いはく「ドメスティックでいいから真剣に掘り下げたものが、かえってインターナショナル」

というのがあってですね。

 

 



①について。
その番組では「君たちはどう生きるか」の制作を通して、
2018年に死去した「パクさん(高畑勲)」への
宮崎駿の断ち難い、憧憬、愛情、おそれ、呪縛、…等々、



一言では言葉にすることのできない、山ほどの想いへの対峙と、
それをなんとか超えようとしているプロセスが描かれていました。
(作品内に「これはパクさん」と、
位置付けているキャラが出てくるのですよね◁わたしは見ていないけど)



それを見て、



「ああ、この人は、何より誰より、まず自分を癒すために、
アニメを作っているんだな。
自分の心的旅路を作品にしているんだな。
作ることを通して、昇華し、癒されようと(もしくは次へ行こうと)しているんだな」



と思ったのでした。



そして、それでいい(ものすごく、いい)と。

世の中のすべての創作活動というものは、
畢竟そういうもの…
というか、その要素がないものは、
他者の心に響くものにはなり得ないのでは?と。



一人が旅をする。
周囲は、その「旅」を共にし、追体験することを通して、
そこから自分自身にとって必要なものを獲、
感じ取って癒され、成長する。

そこに必要なのは、ただ、掛け値なしの
「クリエイター」自身の本気の旅、自分自身の旅のプロセスなのだ、と。
それだけが、真の響きを放ち、
周囲を巻き込める可能性を持つのでは、と。






②久石譲いはく「ドメスティックでいいから真剣に掘り下げたものが、
かえってインターナショナル」



ドメスティック(domestic)は
「家族的な」とか「自国の、国内の」意。
(わたしはドメスティックとバイレンスをくっつけて、妙な覚え方をしていましたよ!)


番組では、久石譲が、世界各国の有名なオーケストラで指揮をし、
シンフォニーや、そしてもちろん、宮崎アニメの曲が、
大喝采を浴び、受け取られている様子が映し出されていました。




どこか懐かしい、わたしたち日本人にとって
心揺さぶられるような数々の楽曲が、
こんなふうにたくさんの国の人たちに
熱狂的に受け入れられているなんて。
(正直、涙が出るくらい胸がキュッとしてしまった)



ニューイヤーコンサートで毎年見る、
ウィーン楽友協会の絢爛たるホールで鳴り響く
「となりのトトロ」を聴きながら、
とても誇らしく思うと同時に、少し「うるっと」き。
(そして、なんだかちょっとクスッと笑える感じ)


(想像だけで描いてみました。トトロ。似ているけど何かが違う…。
こういうのを「これじゃない感」というんでしょう)

 

 





先の言葉。
これは、久石譲の「宮崎駿のつくる世界」についての言葉なのだけど、
久石譲の曲自体が、まさに、自分の中に湧き上がる
「ドメスティック」
な部分を、追及して今に至っているのだろうなあと。
そう思う。




広く、でもない。
万人に受け入れられるか、でもない。
世界はどんなのが好みなんだろう?
どんなものが受け入れられるんだろう、でもない。
自分の中に湧き上がる、ただ一つの響き。



繰り返し、繰り返し、自分に力を与えづつける、決して枯れない泉。
魂に刻まれたもの。細胞の記憶。



そこを探究し、追及し、
それが今、世界の、多くの人の心を震わせている。







さて。
というこの2つの話を、
少し前、クライアントさんとしたところだったのです。
「何を他者に伝えるか?」
について。

(ですので、自分の中から真に湧いてくる、断ち難い思い、
最も興味あること、最も伝えたいことを伝えればいいのでは!と
お伝えしてみたところでした)






今この瞬間、
「何を伝えるか?」
「自分とは何か?」
「これから自分は何を表現するのか?」

で迷っている人がいたら、
よろしければこの話、何かの糧にしてください。




 


 

 

 

 

数日前、会話をしていて「聞かれてないなあ」とモヤモヤすることがあり、

すっかり元気がなくなってしまったので、

(わかりきっていることですが「聞かれてない」「受け取ってもらってない」という感覚は結構「来ますよね」心に)


みんなで再確認しましょう‼️



まず、前提として、
「コミュニケーションはキャッチボール」。




よく聞きます、知ってます、と思ったあなた。
この「キャッチボール」が本当には「出来ていない」こと、結構多いのです。

以下、
わたしが研修で実際にボールを使ってやる
「コミュニケーションはキャッチボール」のエクササイズを、言葉で書いてみます。



さて、「心地よいキャッチボール」のルールとは。

❶心地よい速度の(受け取りやすい)ボールが
❷一回に一個、こちらに飛んでくる

当たり前ですね。
当たり前なんですが、ボールを「言葉」に置き換えると。


「ものすごい速さのボールが」
「一度に2〜3個飛んでくる」


ようなキャッチボールを平気でやっている人がいたりします。
(ボールだと、そんなことしたら「何かの特訓か??」ですけど、
「言葉」だと平気でやってしまったりする)




さらに。
心地よいキャッチボールのルールは続く。

❸自分が投げたボールを「相手が受け取った」ということがちゃんとわかる

これも当たり前ですね。
けれど、これを言葉に置き換えると、



「反応がない
(うなづきがない、相槌がない、目が合わない、受け取ったよというメールがない…)」



とても「不安になる」やり取り、溢れているんじゃないでしょうか。
さらに。



❹投げたボールが相手から自分の手元に返ってくる



この❹までを完了して、初めて「コミュニケーションが完了した」
ということになります。
ここまでをやって、一つのコミュニケーションが終わる。



「相手にボールを返さない」
「もらったボールを一人持ちし続ける」



そんなキャッチボールは「ありえない」わけですが、
これが言葉だと、ある。とてもある。ものすごくある。

「返事が返ってこない」

というわかりやすいものから、
あなたが一生懸命話した内容に対して、


「へえ〜、そうなんだ」


の一言で、
⚫︎「ところでさあ」とあとは自分の話に持ってかれる…
⚫︎「それってこうなんじゃないの」
と断定される、判断される、ジャッジされる、
欲してもいない(合ってもいない)「答え」を返される、などなど。
(ああ、なんて悲しい)





さて。
心地よいキャッチボールのルール。

❶心地よい速度の(受け取りやすい)ボールが
❷一回に一個、こちらに飛んでくる
❸自分が投げたボールを「相手が受け取った」ということがちゃんとわかる
❹投げたボールが相手から自分の手元に返ってくる



ボールを「言葉」に置き換えて、
自分が毎日、どんなふうに、どんな速度で、どんな投げ方で
「言葉というボールを」相手に向かって発しているか、
そして、どんなふうに受け取り、相手に返しているか。
双方にとっての快適な「リズム」はあるか?


改めて、「イメージして」みてください。


あなたと大切な人との対話において、
きっと、大いに発見するところがあるのではと思います。



「コミュニケーションはキャッチボール」



このことが、しっかりと「身体で」実感出来ていると、
コミュニケーションというものが、
「なんて言えば…」
とか、
「どんな言葉を使えば…」



以前のものであって、
表面的なハウツーのみでは成り立たないものだということが、
よくわかるのではないかと思います。






(写真は少し前の霜。写真のネタが尽きてきまして)

 

 

 

 


「わたしの才能は…」なんていう言い方は、
少々(だいぶ)抵抗のある人もいるのではないだろうか。
いや、むしろ言えない、という人もいるのではないだろうか。


才能・強み。


わたしの専門分野ではそれを、

「放っておいてもついつい勝手にやってしまう、思考パターンや行動」

と定義しているけれど、
最近、いろいろな人の話を聞いていて、


「人には見えていないものが見える(わかる)分野」


という言い方も(わたしにとって)ピッタリくる、
いい表現が見つかったなー、という気がしている。



ある人と、布の話をしていたのだけど、
話を聞いているうちに、
自分がミクロサイズになって、
布の繊維一本一本が交錯している巨大な織りの空間に
ふわんと浮かんでいるかのような感覚を覚えた瞬間があった。
(大昔、こういうSFドラマがあったぞと思いつつ⇨小さくなって人体に入るやつ)



わたしには想像もつかない視点。
見ているところ、見えているところ。
それは多分、その人にとっては「ものすごく当たり前」で、
わたしにとっては新鮮で驚きだらけのものだった。




で、
「才能」に関して、小さい頃伝記で読んだ
「シュバイツアー博士」
の話を思い出したんでした。



シュバイツアーは小さい頃から、
オルガンがうまかった。
メロディに美しい和音をのせて弾く。

で、ある日、担任の先生に、
「先生はこうすると綺麗な演奏になることを知らないんだ」
と思い、アドバイスした。



翌日、先生が相変わらず、
片手で(一本指で?)オルガンを弾いているのを見て、
「みんなができるわけではないんだ。
これが普通だと思っていたけれどそうではないのだ」



ということを初めて知る、と。
そんな内容だったかと。




そのことが苦ではなく、ずっとできる。
そして、自分にとって、まるで
「そこに空氣があるように」
「ご飯を食べるように」

自然で当たり前のこと、感じ方、見え方、動き方。
それを「才能」と呼ぶ。

そしてそれは、もちろんあなたの中にも。
あなたの身近な人の中にも。
皆に備わっているもの。




それをお互いに交換しあい、
披歴しあい提供しあってつながっていく。
まるでパズルのかけらのように補い合って丸い豊かな世の中になる。



そんな世の中、
最高じゃないか!と今年、今この瞬間も、ものすごく思っている。





さて。
人はそれに「まみれて」いる時が一番幸せ。


今年、あなたはどれくらいの時間、それに「まみれて」生きるだろう?
あなたの大切な人の「それ」を発見し、
彼が、彼女がそれに「まみれる」ことをどれくらい
サポートするだろう?



どうぞ、今年も存分にやっちゃってください。

 

 




(※写真は姪の「才能」。この道で人様のお役に立っているのがすごいよなあ…と思います。ほんと)

 

 


 

 

 

高齢の方がよく口にする言葉に、

 

「子どもに(周りに)迷惑をかけたくない」


というものがあるように思うけれど

(そして、わたし自身もどこかでそう思っている自分を発見するけれど)
その根っこには、



「役に立たなければならない」
(役に立たないならいる価値がない)



という観念があるよなあ、
と、クライアントさんと話していて思ったのです。




役に立つか、立たないか。
効率的か、非効率的か。
正しいか、正しくないか。




わたしたちは、ずっと長いこと、
これらの軸を中心に据えて生きてきており、
なんとかして、

「役に立つものであろう」
「効率的であろう」
「正しくあろう」

と。
一生懸命にそっちの方向へ行こうとしていたように思います。
そういうものであろうとしていたように思います。
そして、(世間的に)逆の側にある状態は、



「見ないようにし」
「非難し」
「排除し」


てきた。


けれどもう、その軸から離れていいときがやってきたんだな、
と最近特に、そういうふうに思います。




つい最近、
知り合いに「江戸時代の長屋のたぬき男の話」というのを
書いて送ったんですが。


「長屋にたぬきが大好きな男が住んでいて、
自分の部屋の中にたくさんのたぬきを飼っていた。
匂いもするし…で、同じ長屋の人々は
『困った困った』と思っていた。

ある日、長屋が(もしくはそのたぬき男の部屋が?)
火事になったかで、
たぬきが全部死んでしまう。
男はたぬきがいなくなって、すっかり元気がなくなってしまう。

すると、長屋の住民がお金を出し合って、
たぬきを買ってあげた」



 

 

元々、日本人というものは、そういうものだったんだろうな、と思います。
「多様性」なんて言葉をわざわざ使わなくとも、
様々なものを「ありのままの姿」で大きく包み込み、
みんなでわしゃわしゃと、助け合ってげんきに生きていく、
そういう土壌をはじめから持っていたのだ、と。




とにかく、その際、生きる上での中心軸は、

「役に立つか?」
「効率的か?」
「正しいか?」

ではなかったことは確かなのです。




話戻って。
思うに大家族で生活することが少なくなって久しいので、

「上手に周りに頼り、家族や周囲に委ねて身を任せつつ、
人生をゆったりと全うしていくお年寄り」

のモデルがもはや身近にいないんだなあ、と、そういうことも思いつつ。




記憶の奥底にかすかに残る祖母の姿を思い出しながら、

(あれを「愛」と言わずになんというんだろう、と思うのです。
わたしが「無条件の愛」という言葉で唯一、思い出すのは、
部屋にちょこんと、ただ座っていたばあちゃんの姿です。
ばあちゃんのふところの温かさです)



これからいい時代になるなあ、と改めて思うところです。
何ってわけではないんですが、
このような話のできる人、響きあえる人、
共感できる人が身近にどんどん増えている、ということを感じ。




このようなつながりを新たな(いえ、本来あるべき)軸として、
やっていこう、動いていこう、という人たちの思いを、
あちこちで感じている最近です。




(写真は正月二日の鹿児島は城山からの眺め)


 





「自身が発した言葉をどう受け取るかは相手の責任。

わたしたちは相手の責任まで負うことはできない」が第一位でした。

(「研修で一番心に残ったことは?」の質問に対して)


参加者24人中、7割が「一番心に残った」と。
「これが来たか〜!」と内心驚きました。予想外。



これをぜひ伝えたい、と思ったのは、
研修前に書いてもらった「うまくいかなかった部下との会話事例」のアンケートで、

⚫︎表現が回りくどい
⚫︎相手に気を遣いすぎて、結局一番言いたいことまで達していない

例がとても多かったからなのです。
(名付けて「外堀戦法」。
まあ、時間がかかっても本丸まで到達できればいいんですが、
外堀だけ埋めて力尽きている事例、多数😊)



「相手が傷つかないように気をつけて話しました」
「(お客様からのクレームを)そのまま伝えては相手が傷つくので、
表現を柔らかくして伝えました」



と。
とても順当な、人として当たり前の感覚に思えます。
けれどこの中に、わたしたちの中に長いこと居座っている
思考と感情のパターンが厳然として存在する。



「相手のことを考えなさい」
「周囲に合わせなさい」
「人を傷つけてはいけません」
「もっと思いやりを持ちなさい」
「人から嫌われないようにしなくては」



確かに。
これを否定するものでは全くありません。
けれど同時に、これらは時にはわたしたちを過度に縛り、
自由な表現を妨げるものにもなっている。




さて。
「相手の気持ち」なんてものは、
いくら想像しても本当にはわからない、ということを承知しておくといいのです。

そんなものは魔法使いでない限り、本当のところはわかりはしない。
「傷つく」と思っているのはあなたであって、
相手がそうなのか、本当にはわかりはしない。
相手がどう受け取るかなんて、コントロールできはしないのだから。



(実は、ここをコントロールしたい、という人は結構いて、
「相手にこのように思ってもらうために、行動してもらうために
『どう言ったら』いいでしょう?」という質問、よく聞きます)

 





 

 

自分の中から「本当の」思いと言葉を解き放ち、相手に届け、
そして勇気を出して、委ねる。



そんなコミュニケーションは、すっきりとしていて、
軽やかだな、と思います。
風が吹いて新緑が揺れるようであったり。
太陽に照らされた土みたいにほっこりと温かったり。
派手じゃないけれど、遠赤外線で、
ゆっくりと効いてくる炭火みたいだったりする。

つまり、その人の個性、人間性がしっかりと伝わってくるものになっている。
「言い方」(言葉)もとても大切ではあるが、
その人の「真の意図」(あり方。being)こそが、
相手に振動となって伝わるのだ、ということがよくわかる。





わたしたちは、相手に幸せになってほしいと思えば思うほど。
相手といい関係を作りたいと思えば思うほど。
コントロールしたい、という欲求が生まれることもあるものです。



けれど、そこにしっかりと「境界線」を引く。
相手と自分は違う人間なのだと理解し、
尊重し、信じ、委ねる。





そんな「健全な境界線」こそが、
「新緑の風が吹くような」自由自在な関係性と互いの成長を
もたらすものなのだと思います。





(写真は島津家別邸、仙巌園の白梅。
見ると近所の白梅も満開になっており、「はじまったー😃!」という感じがしています)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


そろそろテレビで、
「大掃除のしかた」(水垢はこうとる、とか、網戸はこう掃除する、ですとか)

の特集が出だしましたが、

そんな中、
「大掃除に取り掛かるの自体が大変。どうしたら取り掛かれる?」



という質問があって、
「いい質問だなあ〜(笑)
→(ほんとそうだよね。本質ついてる)」
とおかしくなったのですけど、



その時フッと思いついた答えが下記。
「『赤ちゃんの一歩』で、自分を騙せ」



NLP(神経言語プログラミング)で、
よく「ベイビーステップ」という言葉を使うんですが。
それです。



人は基本、変わりたくない生き物。
大きく変化することをなんであれ嫌う。
人の奥深く、無意識の中にある、
強固な「ホメオスタシス」。
(変化は危険!守ろう、変わらないでいよう、現状を維持しよう、の機能)



いきなり、大きく、

「さあやるぞ!」
「ががっと一気にやるぞ、磨くぞ、捨てるぞ、整理するぞ!=変わるぞ、変えるぞ」

と動こうとするとき、
それと同じくらいに無意識下で、
それを止める「ブレーキ」も出てくる。





なので、
「無意識が気づかないくらい」に
小さな、小さな変化から始めるといい。
(これがつまり、赤ちゃんの一歩、ベイビーステップ、ということ)
無意識をだまくらかす。
「え?全然動いてないよ〜(笑)
変化してないよ〜(笑)」
と。



ジリジリとそれが(ベイビーステップが)
静かに積み重なっていくと、
気づくとそれが大きな変化になっている。




今年、
たまたま、まさに「ベイビーステップ方式」で
大掃除を、とも思わないままに
なんとなく掃除を始めていたもので、
(朝、窓ガラスを一枚だけ、ですとか、小さな引き出し一段分の不用品廃棄、といった感じで)

書いてみました。



「スッキリ感」「出来た感」がジリジリとつみかさなって、弾みがついて、
掃除へのやる気が静かに盛り上がってきているのを
今、まさに体験中。




そしてこの「ベイビーステップ」方式、
もちろん掃除以外にも、いろんな場面で使えます。





(近所の紅葉です)


 

 

 

 

 


夢の話です。

(唐突ですが)

 


「別に何をして欲しいと言っているわけじゃない。
そこにいるだけで落ち着くから(癒されるから、リラックスするから?)
いてほしいと言っているだけ。
そういうことを言ってはいけないのか?(要求してはいけないのか?)」



と。
そういうような意味合いのことを(しかも結構なお怒りモードで)
誰かに言っている自分がおり。
そこで目が覚めたんですけれど。



一体誰に言っていたのか、
どうして自分があんなに怒っていたのか全くわからない。
夢って大体そんなもんですけど。

 

(ちなみに、かつて心理学の先生から、

「夢の中に出てくるものは全て自分」という話を聞きましたが。

自分に向けて怒って発言していたのでしょうか)

 

 

それはさておき。





一日のうちに、同じようなことをあと二回、聞いたので
(動画などでですね)
念のためこうして書いてみているわけです。
(誰か、これを読むといい人がいるのかなー、と)



一言で言いますと、
「あなたはいるだけでいい」。



「あなたにいて欲しい理由」



なんてものは、
大体においてそういうもの。



あなたが何かできるから。
やってくれるから。
あなたが何者か、であるから、あなたが大切にされているのではない。
あなたが必要とされているのではない。





あなたが何もしなくても、あなたの本質。
あなたの細胞が奏でている波長。
そこにいるだけで醸し出しているもの。



それがいい。
それが素敵。
それが心地よい。
それが好き。



あなたの「やっていること」(仕事などで?)
が気に入られ、認められているのかもしれませんが、
それは「後付け」であって、

本質は「そっち」だよ、

というようなこと、でしょうか。
なので、間違っても他者になろうとしなくていい。
違うものになろうとしなくていい。
(あなたはあなたであれ)



と。
そんなところでしょうか。



(誰かー、役だった人、いますかー😃)