人が持つコミュニケーションの力を磨く・鍛える・呼び覚ますーコミュニケーション・ワークス公式ブログー -3ページ目

 

 

 

 

 


そろそろテレビで、
「大掃除のしかた」(水垢はこうとる、とか、網戸はこう掃除する、ですとか)

の特集が出だしましたが、

そんな中、
「大掃除に取り掛かるの自体が大変。どうしたら取り掛かれる?」



という質問があって、
「いい質問だなあ〜(笑)
→(ほんとそうだよね。本質ついてる)」
とおかしくなったのですけど、



その時フッと思いついた答えが下記。
「『赤ちゃんの一歩』で、自分を騙せ」



NLP(神経言語プログラミング)で、
よく「ベイビーステップ」という言葉を使うんですが。
それです。



人は基本、変わりたくない生き物。
大きく変化することをなんであれ嫌う。
人の奥深く、無意識の中にある、
強固な「ホメオスタシス」。
(変化は危険!守ろう、変わらないでいよう、現状を維持しよう、の機能)



いきなり、大きく、

「さあやるぞ!」
「ががっと一気にやるぞ、磨くぞ、捨てるぞ、整理するぞ!=変わるぞ、変えるぞ」

と動こうとするとき、
それと同じくらいに無意識下で、
それを止める「ブレーキ」も出てくる。





なので、
「無意識が気づかないくらい」に
小さな、小さな変化から始めるといい。
(これがつまり、赤ちゃんの一歩、ベイビーステップ、ということ)
無意識をだまくらかす。
「え?全然動いてないよ〜(笑)
変化してないよ〜(笑)」
と。



ジリジリとそれが(ベイビーステップが)
静かに積み重なっていくと、
気づくとそれが大きな変化になっている。




今年、
たまたま、まさに「ベイビーステップ方式」で
大掃除を、とも思わないままに
なんとなく掃除を始めていたもので、
(朝、窓ガラスを一枚だけ、ですとか、小さな引き出し一段分の不用品廃棄、といった感じで)

書いてみました。



「スッキリ感」「出来た感」がジリジリとつみかさなって、弾みがついて、
掃除へのやる気が静かに盛り上がってきているのを
今、まさに体験中。




そしてこの「ベイビーステップ」方式、
もちろん掃除以外にも、いろんな場面で使えます。





(近所の紅葉です)


 

 

 

 

 


夢の話です。

(唐突ですが)

 


「別に何をして欲しいと言っているわけじゃない。
そこにいるだけで落ち着くから(癒されるから、リラックスするから?)
いてほしいと言っているだけ。
そういうことを言ってはいけないのか?(要求してはいけないのか?)」



と。
そういうような意味合いのことを(しかも結構なお怒りモードで)
誰かに言っている自分がおり。
そこで目が覚めたんですけれど。



一体誰に言っていたのか、
どうして自分があんなに怒っていたのか全くわからない。
夢って大体そんなもんですけど。

 

(ちなみに、かつて心理学の先生から、

「夢の中に出てくるものは全て自分」という話を聞きましたが。

自分に向けて怒って発言していたのでしょうか)

 

 

それはさておき。





一日のうちに、同じようなことをあと二回、聞いたので
(動画などでですね)
念のためこうして書いてみているわけです。
(誰か、これを読むといい人がいるのかなー、と)



一言で言いますと、
「あなたはいるだけでいい」。



「あなたにいて欲しい理由」



なんてものは、
大体においてそういうもの。



あなたが何かできるから。
やってくれるから。
あなたが何者か、であるから、あなたが大切にされているのではない。
あなたが必要とされているのではない。





あなたが何もしなくても、あなたの本質。
あなたの細胞が奏でている波長。
そこにいるだけで醸し出しているもの。



それがいい。
それが素敵。
それが心地よい。
それが好き。



あなたの「やっていること」(仕事などで?)
が気に入られ、認められているのかもしれませんが、
それは「後付け」であって、

本質は「そっち」だよ、

というようなこと、でしょうか。
なので、間違っても他者になろうとしなくていい。
違うものになろうとしなくていい。
(あなたはあなたであれ)



と。
そんなところでしょうか。



(誰かー、役だった人、いますかー😃)




 


 

 

 

 

伯母が亡くなり、葬儀に参列してきたんですが。
一つ一つの儀式。
「手順」を踏みながら、「ああ、これはまさに生きている人間のためのものだなあ」と
あたらめて思ったのです。



(ちなみに、子どもだった頃
わたしに一番「かわいい」をたくさん言ってくれたのは
確かにこの伯母だったような、と改めて思い出しつつ)



お経を聞き、
(また、お坊さんは声がいいので、全身に響くんですよね)
お焼香をし、
そして、お棺の中に花を添え、
出棺の儀式があり、

そしてまた、火葬場での一幕があり。
何度も祈り、何度も手を合わせ。





そのプロセスを通して、
少しづつ、少しづつ、生きている者たちが
「この人は次の世界に旅立つんだ」
ということを身体レベルで「わかり」「受け止めて」いく。

悲しみと共にだんだんと「あきらめて」いく。
俗世から次第に離れていく、彼の人を見て、感じている。

そのプロセスが、
あの、段階を踏んだ様々な「行動」なんだなあ…と。





弔いの儀式というものは、
故人を新たなる世界へ送り出す場であると同時に、
参列する人間にとっても「死と再生」のプロセスを踏むものなのだな、
と思います。
生と死の境まで行き、そして再び戻ってくる旅。



火葬を待つ間、
出された仕出し弁当を黙々と食べながら、
ふと「際(きわ)」から「今」に。
「隠り世」から「こっち側」に帰ってきた感じがものすごくしたのですよね。
まるで長い旅から帰ってきたような?

ああ、生きてるんだなあ、と。
大きなガラス窓の向こうの、
雲ひとつない秋晴れの高い空を見ながら思いました。
空がほんとうに美しかった。





伯母との別れは悲しかったですが、
そんなふうに悲しみや辛さもあるこの世界を
一生懸命に生きるわたしたちには、
だからこそ「儀式」「まつり」が必要なのだな、と思います。



なんといましょうか。
「魂」とか、「存在そのもの」とか自分の心の柔らかいところ。
純粋なる喜び、哀しみ。
生(せい)の実感。
そんな、日頃忙しくて、
すっかり忘れ果てている部分や感覚にアクセスし、味わう時間。
哀しみが昇華し、生きるエネルギーに変わる時間。



日頃の地面を這っているような近視眼的な視野の世界ではない、
自分が過ごしてきた時間や、
人生全体を俯瞰して見直すような、そんな時間。
命や志のつながりを脈々と実感するような時間。
非日常。異空間。





それを、儀式や祭祀、祭りというものは果たすのだろうな、
と思います。
お葬式だけでなく、結婚式、結納の儀、卒業式、入学式…
そんなものも同じく。
土地土地のお祭りも。



儀式、祭祀、祭りは人にとって再生の場なのだ、と思います。
再び新たなるエネルギーで生き始めるための大切な時間。
まさに「ヒーローズジャーニー」。

旅立って、そして変容して帰ってくる英雄の「小さな旅」なのです。





今日は何というわけではないんですが。

効率、といったものとは全く別のところで、
人が人として生きるに、とても大切な時間がある、
(わたしたちの心と魂を再生する仕組み、
癒し、再び復活するための仕組みというものが、
わたしたちの伝統風習には、ちゃんと昔から組み込まれているのだなと)

と思ったのでした。

大切にしたいものだと思います。





(※写真は鹿児島神社の秋の大祭。本当に氣持ちのいい時間でした

笛と太鼓の音が心地良し)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「転んだとき『我慢すると褒められる』男の子。
人が転んだ時に『他者の体の痛みにまで気を遣い同情すると褒められる』女の子。

この違いが『感情への感性』の違いを生む」


というのは、岡田斗司夫氏が言っていたことで。
「男の子は、自分の体の様子や体調不良を我慢すればするほど褒められる。

なので、身体についても感情についても鈍くなるんだ」と。


ああ、なるほど。
結局そういうところから始まっているかもなと。





今はそういう親ごさんは少ないでしょうが、
わたしは小さい頃、泣くとよく怒られました。


結果わたし自身、「泣かない子」(我慢する子)に育ち、
なのでなんだかよくわかるのです。





例えば小さい頃の予防接種。
だいぶ痛かった覚えがあるんですが、
いつも全身&心を石みたいにして我慢していた。

そして、顔を真っ赤にして泣きわめく
周りの「園児たち」(←自分も園児)
の顔を見ながら、
「見苦しいな…」と。

(可愛くない子)

明らかに泣かないのが立派なのだ、と思っていました。





「自分は感情を感じるのがあまり得意じゃない」

と思ったのは仕事を始めてからのことで。
なので、教員生活の始めの頃は今思えばなかなかに大変でした。
(自分の感情を感じないように、
分厚い皮をかぶっているようなものなので、
子どもの「身体感覚」「感情」と本当の意味で触れ合うのに時間がかかり)




(今年も咲いたわれもこうです。
毎年書きますが、「姫もこう」の名で買って、大人しく可愛いサイズで咲いていたのは初めの一年。
翌年からはワイルドに伸びまくり、ライオンの立て髪のようにわさーっと咲きまくっています)






悲しいこと、びっくりしたこと、怖いことがあった時に。
怒りを感じた時に。
その自然な感情の発露を、

「それはいけないことなのだ」

と言われると、
(言葉で言われなくともそういう身体メッセージを発せられると)
確かに「それ」を感じるセンサーの感度は弱くなりますね。
自分の中で「それを感じる」ことへ許可がおりない。




けれど、我慢した感情自体はなくならなず、
ずっと自分の中に残り、着々と蓄積され続けるので、
結局「後で」味わうことになるのですけれどね。
(手をかえ品を変え形を変え、
絶対に「気づく」ような出来事が起き、味わうようになっている)




ずっと「放っておいた自分」「ないことにされていた自分」
は怒っていて、悔しくて、悲しくて、
寂しくてしようがないわけですから、
全力で「メッセージ」を送り続けるわけです。
気づいてもらうまで。





そう思うと、
「味わうべき感情」「湧いてきた感情」は
その場ですぐに、存分に味わってしまうのがいいな、
と本当に思います。
白黒つけず、いい悪いもなく、ジャッジすることなく、
ただ、しっかりと味わうのがいい。
(「味わう」と「表現する」は別物なので念のため)





家族との関係。
職場での人間関係。
仕事。
対ひと、ひと以外に関わらず
の大切なものとの関係、全てにおいて

あれ?と思ったら。
うまくいかないと感じたら。





その時こそ「今だ!」というメッセージなのだと思います。
「見て!」
「聞いて!」
「気づいて!」
「ここにいるから!」
という、「どこかに置いてきた自分」からのメッセージ。

答えは外側にはなく、
全部自分の内側にある。




「その自分」との語らい、承認、和解。そして愛を注ぐ。
それもまた、

前回書いた「自分の中心に戻る」「碁盤の目の中心に戻る」
(=それこそが世界への、あなたの貢献)





ということなのかと思います。








追伸:

「他者の体の痛みにまで気を遣い同情すると褒められる」女の子、

がOK、と言っているわけではないのです。

それはそれで行きすぎると自分がなくなる気がします。

バランスですね。






 


 

 

 

朝の清涼な空気が本当に心地よい。

 


さて、セッションで話を聞いていると、

みんな話していることはそれぞれなのだけど、
つまりは「ズレを戻して」自分の「中心」に戻る作業をして、
自分の「中心」を再確認して、つながって、
そして再び自分の生活に出発しているんだな、と思います。



「グリッド。
碁盤の目。
そこに一人一人が立っている。

が、
これまで、全員がズレていた。
自分の本来の場所から、なんらかの理由でズレた位置に立っていた。
一人がズレると、その隣も、そのまた隣も…と、
全員が押されてズレ始める。


それが今まで。


けれど、逆に、
一人が気づいて自分の位置に戻ると、周りも押されて「中心」にもどり始める。

みんなが『自分の位置』に戻る時代がやってきた」

 

 

 

 

いう内容が載った本を買ったのは30年前。
今でもとても鮮明に自分の中に刻まれています。



自分に戻る。自分を生きる。
それが一番大切で、わたしたちはそのために生きているのだ、と思います。



自分の本質。
自分の本来の位置。
自分の周波数。
自分のリズム。
自分が本来もつ響き。
(わたしはこの表現がとても好きで、感覚的にもしっくりくるので、昔から使っていますが)



どんな表現でもいいんですが、
そこにいる。それを生きる。
それより他にやることはないし、
それだけで、その状態で生きているだけで、
わたしたちは周りに貢献出来ているのだ、とつくづく思います。
(まあ、貢献するために生まれてきているわけではないですが)




そして、
そのために、わたしたちのような役割(仕事)のものもいるんだなあ、と思います。
いわば「調律の場」を作る役割。
「調律」の手伝いをする役割。
「声を聞く」ことをたすける役割。





今これを読んでいる忙しいあなた。
自分の調律をしっかりとしてください。
「その時間」を取ってください。
(と、そのお願いを、クライアントさんにも改めてしたところです)

 






一人になって、自分に声をかける時間をとってください。
あなたが一番ほしい言葉は、
結局自分で自分にかけることでしか、
本当には満たすことができないものなのです。





旅人が旅の途中、ふと立ちよる

せんせんと清水の湧き出る泉。
柔らかい下草の生えた木漏れ日美しい木陰。
暖かい焚き火の燃える居心地よい洞窟。

そんな場所と時間を取ってほしいと思います。



そこで、
この世界で誰よりも大切な、最も近しい、
ずっと共に歩んできたパートナーである
「あなた自身」と、ただ共にいる時間、
そして声を聞く時間、語らう時間をとってほしい、と思います。





全てはそこから始まる、
と思うこの秋なのですよね。
改めて。
(ざっくりですけれど)





(写真は、車のフロントガラスに乗っていた桜の落ち葉。
綺麗だったので、一枚だけ「お土産」と、持って出かけたところ、
知人はとても喜んでくれ。
こういうものを「美しい」と喜んでくれる感性がとても嬉しかったんでした)

 


 

 

 

 

少し前、大勢の子ども達を前に、
先生たちが話をしているところ見る機会があったのです。

「この先生は、いつ、どんな場所でも、
このリズム、この声、この表情、この話し方なんだろうな」
(「子どもにはこういう話し方がいい」な歌のおにいさん的声と笑顔)



という人と、

「この先生は場の空気をちゃんと把握して、咀嚼しているな」
(自分の声や身体を子どもの反応に合わせてるな。瞬発力あるな)

という人、さまざまで。
で、当然後者の方が場が生き生きとしている。
子どもの自然な反応が湧いていて楽しい。





さて。

わたしが教員になるとき、
「どう伝えるか」という、
声や身体、表現については全く勉強しなかったんですよね。
そもそもカリキュラムになかった。



ズブの素人が、何のトレーニングも「構え」もない
「素人の身体」のままである日突然人前に立つ。
あとはとにかく「毎日やりながら」なんとかしていく。

それが教員の世界でした。
(今はどうなんだろう)




なので、つくる「場」。
その空気、質の個人差がとても大きかった。
元々のセンスのある人、ない人の差がはっきりと分かれる。

今思えば、なんと恐ろしい…とまではいかないですが、
なんと罪作りなこと!

と、当時を思い出すに、
子どもたちに申し訳なくてしようがない気持ちになるのです。



で、そういう話を知り合いの先生に、
(高校生相手に百戦錬磨の強者の大先輩)
ちょい熱(あつ)で語ってみたのです。



すると、
「ほんと、その通りだよ」
の同意とともに、
「今はねえ…昔よりもっとひどいんだよ」

と、なんだかすごい言葉が帰って来たのでした。
(で、それは一体どういうことなの!?と
ものすごく気になっているところなのです)





さて。

教員よ、「伝える」「導く」「場を作る」プロとしての
身体と声と言葉を磨け。
と、ずーっと思っています。



「相手はあなたの言葉の通りになるのではない。あなたの身体の通りになるのだ」
(竹内敏晴 演出家)



大人・子どもに限ったことではなく、
コミュニケーションの鉄則ですが。
言葉より前に、
自身の身体状態、身体からのメッセージが相手に伝わります。




さらに付け足すと。


学びへの「意欲」や「学ぶ喜び」「熱」。
それは、教師の身体を通して、その教師の想いと共に、
【伝染してゆく】ものなのです。

決して、言葉で言われて、
「ああそうか」「じゃあ頑張ろう」と
湧き起こる類のものではない。



「教師自身の身体感覚」を伴わない、
音として聞こえるだけの言葉は子どもには伝わらない。
子どもには「先生のほんとう(無意識)」が伝わります。



だから、教師にとって、知識と同じに、
自分の身体を「コミュニケーションのできる温まった身体」にしておくことは大切です。
自由自在にあり方を変えられる「開いた身体」にしておくことは大切です。
場を察知する「身体センサー」を鍛えておくことは必須なのです。





 

ちなみに。

なぜ、日本の学校では、先生たちの「そういう力」が重視されないか、
トレーニングすらないのか、
(今は存在していて欲しいんですが)
ということなんですが。



想像ですが、日本の授業の形が、未だ、ざっくりいうと
「明治から変わっていない」
ということが挙げられるのでは、と思います。

未だに約40人を箱の中に詰めて、
50分間前を向かせておく形態が多い。
生徒は「静かに聞く」ことが求められる。
小さい頃からそういうふうに「身体も心もしつけられる」。



これは、言い換えるとつまり「先生の身体は楽できる仕組み」
ということです。
努力して「聴衆を魅了する場」を作らなくても、
「まあなんとなくやっていける」(子どもも文句言わないし)。




話がそれますが。
今の日本の教育システムで十何年育つということは、

⚫︎自分の身体感覚(本質、本音)、身体の声を大切にできない。
⚫︎身体と自分自身がのつながりが切り離される。
⚫︎「自分の身体に備わった叡智」を人生の羅針盤の一つに据える能力が育たない。
(たくさんの知識を得るのがすごい。「頭で考えて」合理的な答えを出すことが一番正しい、が王道になる)



と。
そういう大人に「仕上がる」ように思うのですよね。
「身体」「感覚」「感性」は未だ、蔑ろにされているのかなと。
(どうなんでしょうね?)



思うに、
先生自身もそうやって大人になっているわけなので、
それが普通、になってしまっているのは仕方ないな、とも思うわけです。




繰り返しますが。

教師には「場を作る力」が必要です。
そしてそれは言葉だけではなく身体で作るものです。



開いた身体を持ち。
自身の全細胞が起こす振動で空気を震わせ、場を震わせ、
子どもの身体を揺さぶる。
子どもの「吸収したい!」という開いた心と身体を作る。



自分の身体としっかりとつながった「ホンモノの言葉」で、
子どもの身体を揺さぶり、火をつけるのです。


そんな「生きた身体」を持ち、
その身体の中心「自分の根から出た言葉」を
一人一人の胸に、肚に、
しっかりと届けることができる人、



それを「先生」というのではないか、と思います。
(過去、自分が会った数ある教員の中で「師」と呼びたい人たちは、
皆そういう人たちであったように思います)




ということで。

「教員よ。プロとしての声と言葉と身体を持て」
から、
「全ての大人よ、生きた身体と言葉を持て」

とここまで書いて思っているところです。

 





 

 

 

 

 

子育て番組でやっていたんですけど。

 

 

 

受験期を迎えた子どもが勉強しない。

(自分の思ったようには)

 

で、あれこれ言う。

 

 

「やってないの」

「なんでやらないの」

「何時からやるの」

「こんな問題もできないの」

「なんでできないの」

「そんな高校いくの?」

「そんな仕事、うまくいくかわからないじゃない」

 

 

 

子どもはどんどん離れていく。

「うざったい」という反応を示す。

何も喋らなくなる。

どんどんコミュニケーションが取れなくなる。

 

 

 

 

で、上の質問になる。

「子どもになんと言ったらいいでしょう」

「何か、いい言い方はないでしょうか」

と。

 

 

 

 

で、わたしはこの「言い方は…」という「言い方」に、

すっきりしないものを感じるわけです。

(こういう質問、よく聞くのですよね。

親と子の関係だけじゃなく、いろんな関係性において)

 

 

 

 

 

なんと言ったらいいか?

その答えは一つしかない。決まっている。

 

 

 

「これまでうるさく言ってごめん。もうあれこれ言わないから。

自分の考えで自由にやって。お母さん(お父さん)見てるから」

 

 

 

そう言えばいいのだ。

子どもが真に望んでいる言葉はこれのみであり、

親のこのスタンスなのだ。

 

(プラス「悩んだ時はいつでも力になるからね。

いつでも聞くから、話したくなったら話してね」くらい付け加えておけばいい)

 

 

 

 

 

 

 

けれど、そうはならない。

そういう言葉ではない何かが欲しいのだ。

「何かいい言い方」イコール

 

 

 

 

 

「波風立てず、子どもに嫌われず、

なおかつ『子どもが自分の言うことを聞くような』言い方はないですか?」

 

 

 

 

ということなのだ。

相手をコントロールしたい。

 

 

 

 

 

 

で、声を大にして言いたい。

「そんなもの、あるわけない」と。

 

 

 

 

 

子どもが自分の巣立ちに向かって、自らの羽を研ぎ出す時。

それは、親自身も全身全霊で、

自分自身を見返す時なのだと思う。

 

 

 

 

子どもが、

「生きるってどう言うこと?」

「自分はこれからどう生きていくの?」

「自分とは何者?」「自分にとっての幸せとは?」

という一生の命題に真剣に向き合うとき。

 

 

 

 

それは、親自身も、

「一人の人間として、これまでどうやって生きてきたか」

「一人の人間として、これからどう生きようとしているか」

を問われているのだと思う。

 

 

 

 

「普通はこうでしょう」

「これまでこうやってきたから」

「自分はこれでうまくいったから」

「みんながこうやっているから」

「幸せとはこう言うものだから」

 

 

 

 

 

そんな使い古された(そして楽な、使い勝手のいい)

言葉と感覚ではなく、

親自身が、自分自身の「生き様」から滲み出、醸し出された

真の言葉で語れるか?を、

子どもから問われ、見られている時なのだ、と思う。

 

 

(ちなみに、この時に、これらをおろそかに扱うと、

いづれ何らかの「人生の節目」で倍返しみたくなって

返ってくることになるので注意。

例えば結婚式のときとか…

まあ、準備の過程でいろんなことになる親子を見たもんです)

 

 

 

 

 

 

さて。

 

子どもは、先に生まれたものを助けるために生まれてくるのだ、

と何かの本で読んだことがある。

 

 

これまで、いろんな親と子を見てきて、

話を聞いてきて。そうだなあ、と思う。

 

 

 

例えば子どもの反抗や、不登校や。

それらを通して自分を見直さざるを得なくなり、

結果、生き方が変わった親御さんとたくさん出会った。

 

 

 

みな、何か「とらわれていたもの」から解放され、

「自分軸」を生き始めていたように思う。

それはもう、見事に。

自分を生き始めていたように思う。

その姿、輝いているのですよね。

 

 

 

 

 

 

子どもってすごいのだ。

 

 

彼らはある時期、

自分でもどうしようもない破裂音を身のうちに抱える。

身体の中でそれはベキベキと音を立て。

それは彼らの「魂の叫び」なのだけど。

 

 

ともすれば自身をも破壊しかねないそのエネルギーのもの凄さは、

親をも「檻」から引っ張り出すに十分なのだ。

 

 

 

 

彼らは、自分だけでなく、

 

「もっと自由な世界へ。

存分に自分を生きることの喜び」

 

の世界へ、親をも連れてゆこうとしているのだ。

 

 

 

 

願わくば、全ての子どもの「その企て」が、

潰されることなく成功しますように。

と切に願う。

 

 

 

 

 

(写真は鹿児島市の「石橋公園」。

この橋、30年前までは現役で人と車を(2車線で!)渡していたすごい橋だったのです)

 

 


 

 

 

 

 

春のお花見が古来より秋の豊作の「予祝」であった、
ということを以前書いたことがありますが。

「いや〜。こんなに実ったねえ。神様、ありがとう!」

と。
花を稲穂に見立てて前もって祝ってしまう。
喜んでしまう。
喜びを先に味わってしまう。
それによって「豊作」を現実にする。
(引き寄せる、ってやつでしょうか)





NLP(神経言語プログラミング)の講座の後、
受講のみんなで、


「ヒーローインタビュー」


なるワークを(一杯ひっかけて)やった覚えがあります。
自分の夢に対して「もはや成った」ものとして、
インタビューを受ける。





そして、その氣になって答えまくる。
周りも盛り上げまくる。
「○○さん、すごいですねえ!
どうやってこれを実現したんですか??」
と。
喋っているうちに、本当にそうなる氣がするから不思議です。
(あの時の夢、叶えた人もいるんじゃあないかしら?)



なかなかに楽しい時間でした。





未来を描く。そこへ行く。
もはや「成った」場所から、今を見てみる。
NLPやコーチングにも「予祝」視点は満載です。




で。
ふと今年の年末に「飛んで」みた9月1日の朝。
浮かんだのは、心やすい友たちとどこかの座敷で飲んでいる様子でした。(忘年会?)

10人くらいのその場所はぎゅうぎゅうで。
(もっと広い場所でやりなさいよと思いつつ)





 

 

 

わたしはあまり飲みに行かないので、


「おや、これはこれは…」

 

と思いつつ見ていますと、
みんなで「今年の自分の10大ニュース」なるものを
発表し合っていました。



「わたしはどんなニュースを発表しているのかしら??」



と思っていたら、
まあ、結構なことを言っていましたよ(笑)
とっても嬉しそう。

そして、みんなから
「おおお〜!(どよめき)おめでとう!よかったねっ!」
と渦のような祝福を浴びていました。


これは…熱い(場所が狭いからそもそも暑いのよ!と思いつつ)
ちょっと恥ずかしい。
そして、なんと氣持ちのいい。






さて。
興味ある人は、やってみられては?
と思いここに書いているわけです。

ポイントは、
⭐️リアルに想像する

です。

・温度(何度、ではなく、暑い、肌寒い、など)
・質感(肌触り)
・音(声、言葉、生活音…どんな音が聞こえている?)
・におい
・周囲(場所の様子、人の表情)
そして、
・自分の「感情」と「身体の状態」(ここ大事)






もしかして、「それ」が。

いえ、もしくははるかにイメージを超えた「素晴らしい場面」が、
年末、あなたにやってくるかもしれません。

なにせ…
先人たちもずっとやってきた
わたしたちにとってある意味王道の方法ですし!





《追伸》

※もう一つ、大切なことは
「心身ともにいい状態」を作ってから想像する(未来へ飛んでみる)ということです。

くれぐれも、なんだか落ち込んでいる時、身体がぼやっとだるい時…
などにやらないように。


試しに続けて2回やってみたんですが、
(1回目ー普通の状態/2回目ー深呼吸&心地いいことを考えて、リラックスした状態)

1回目と2回目、予想通り出てくる想像が全く違いました。
2回目の方が大きく大きく広がっていました。世界が。

どうせやるなら、自分をいい状態にしてからやってみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6月末に急にパソコンが壊れてしまい、

(電源自体が入らない!という)

7月初めに購入。

 

が、データを全く引き継げなかったもので、

ここの(アメブロの)パスワードを忘れてしまい、

開けることができないまま過ぎてしまた1ヶ月。

 

(そんな「音沙汰なし」の間にも、過去の記事をどなたかが読んでくれているのが嬉しい)

 

 

ということで、復活してまいりました。

変わらずのんびりとした更新ですが。

 

 

*    *     *     *     *     *

 

 

 

 

知人の実家のお墓は、お父様がたくさんの想いを込めて作ったお墓なのだそうで、
それは坂を登った小高い丘の上にあるんだそう。

 



で。
そのお父様が数年前に他界され、
きょうだいでこれからの家のこと、
お墓のことを話しあうこととなったこのお盆。
 

 

 



「お墓をしまって平地の納骨堂に」
 

 

 



という意見が出たのは、
お墓をこれから次に繋いでいく可能性の高い
きょうだいの一人から。

 

 


「お墓を見る負担を子どもたちに残したくないから」
 

 



と。
 

 

 

 

 



ああ、そうだなあ〜、
と思いつつ、
どうも一抹の寂しさを感じ、なんともいえない氣持ちを感じ。
で、口にしてみたのです。
(繊細な内容ですんで、どきどきしながら)
 

 

 



「それを即、『負担』と捉えるということが…。
なんと言いますか、
長い長い時代の流れってものがあったんですもんねえ。
そういう時間をわたしたちは過ごしてきた(来てしまった)んですねえ」
 

 

 

 

 


知人も、わたしと同じような感慨を抱いていたようで。
けれど、知人は家を出てしまっているので「負担」と言われると
確かに、と。
で、自身の思いをどう伝えよう…と。
 

 

 

 

 



もうね。
頭の中が飛躍してしまって、
縄文時代みたいに「お墓は集落の中心」にあったらいいのに、
なんて思いましたよ。

 



お墓を中心に家が周囲に立っている。
死は隔絶されたものではなく、軽く「地続き」な感覚。
 

 

 

 




話が飛びますが、
少し前の番組「ファミリーヒストリー」で、
草刈正雄が父方のルーツを探す、という回がありました。



自分のルーツの片方が完全にない、わからない、
断ち切られている、
繋がっていない、
という感覚は草刈さんにとって、
(いえ、誰にとってもでしょうが)
本当にきついことであったと想像するのです。
 

 

 



自分を捨てた父親への言葉にできない思いと、
それでも、叔母やいとこがいた、という喜び。
父親の幼少期や育った環境が明かされていく
=自身の「源流」が初めて明かされ、繋がっていくという
そのプロセスが映し出されていました。
 

 

 

 

 

 



人にはつながりが必要です。
横のつながり(今生きている人たちとのつながり)はもちろん、
縦のつながりも。
時を超えた、立体的なつながり。

 

 

 


わたしたちは、全方位、360度、繋がって生きている。
生きている人。今はここにいない人。
形あるもの、ないもの、全て。
 

 


遺伝子を受け継ぎ、
たくさんの人たちの「思い」「願い」をもらい、受け継ぎ、
今、わたしたちはここにいる。
 

 

 

 



そして、その「つながり」へ思いを致す力が強いほど、
「無体なこと」はしない。できないものなのです。
 



山なんて崩せない。
海も川も汚せない。
なんで大木を切るんや!
そこの緑をなんで潰すんや!
と。
 

 

(これは先ほど寄ってきた神社の大木。樹齢450年、だったかな。苔が美しい)

 



そう考え出すと、もう、他にもたくさん…
大切なもの、大好きなものががありすぎて。
(形あるものはもちろん、知識や伝統風習含め)


そういう感覚で世界を見ると、
自分を生かしてくれている、
支えてくれている、
エネルギーをくれる、
「宝」に囲まれまくって自分が生きていることに氣づきます。

 

 


そしてこう思う。

この繋がりの先端で今という時代を生きている自分自身も、
すごく大切なんだ、と。
存分に生きよう、と。
 

 

 

 

 



話が大きくなりましたが、
お墓って、そういうものの一つではないかな、
とわたし自身は思います。
自分自身の確認の場。
つながりを確かめ、実感する場だったりありがとう、と感じる場。
 

 

 

 

 

そして、子どもたちって「負担」と思うかな?

思う子もいるだろうし、

思わない子もいるんじゃないかな、

とも思うのです。

特に、これからの世代。

(親が「負担だ」と決めなくてもですね)

 

 

 

 



さて、
わたしたちは、これからどこへ行こうとしているのか。
 

 

 

 



今回の「お墓について」なんですが、正直、
「教育、間違ったんじゃないの⁉︎」
と思いました。

 

 


知人のお家がどうこう、と言っているのではなく。
長い長い間の「日本人」全体のことです。
この160年だか、戦後80年だかのことです。
大きな、この国の「流れ」のことです。
 

 

 

 


一体わたしたちは、何を捨ててきたのか。
何を受け取ってきたのか。



そして、次代に何を手渡そうとしているんでしょう、と改めて考えたこのお盆です。

 


(写真は先ほど行ってきた神社の大木です。苔がいい感じでした)

 


 

 

 

 

 

 

つい最近、(誰かの記事だったか、動画だったかで)見たのですよね。
コンビニ前や駅の構内で、
地面にペタッと座って飲食している子達がいたとして、


「草っぱらなんかでもじかに座る。どうしてここだといけないの?」


と問われたら、なんと答えるか、と。





で、その記事だったか、動画だったか…に、こういうコメントが。

「コンビニや駅の構内だと、
公衆トイレなどに行って、みんなそのまま歩いているから汚い。
なのでダメ、と子どもには教えています」



本当にその通り。
けれどでは、そこがもし、ピカピカの床で、
絶対に菌やウイルスの入り込む余地のない場所だったら
座ってもいい、

ということになるのかしらん、と。



で、わたしの率直な感想は、


「理由が…いるか?」

でした。






なんというか。
 

「理論」。「理屈」。
よく言われる「エビデンスは何ですか?」的な。
それがないものは存在の余地なし、みたいな昨今。



そんなものは全然「通って」いなくとも、

「とにかく良くないの」
「それは美しくないの」

という精神はもはや通用しないのかしら、と。
(お天道様が見ているから、的なですね)







知人が「今、仏教と神道の本を読んでいます」
と。



「自分たちはどうも、以前であればあれば自然と
『もらって』(受け継いで)きたものを

上の世代からもらえていないんじゃないか、という感覚があり」



ということなんだそうで。
(わたしから見ますと、その方、
全くもって、そうは思わないんですけどね)





で、
ご自身の子どもに何を手渡すのか、にあたって、

「では、自分で再度見つけるしかないか」

と。




もらえていない、受け継いでいない、どこかで断絶している、
のならば、
自分で知り、取捨選択をし、
自分で再編し直さねばならない。





そのためには知識が必要。

「根っこ」を知ることが。
揺るがぬ「根っこ」。
「真善美の根っこ」を知り直す必要がある、
出逢い直す必要がある。



それはなんだろう??
と考え、「仏教」「神道」というものにも触れてみよう、
と思ったんだそう。







これまでも何度か書いていますが。

「根っこ」を知らないもの、
根っこと繋がっていないもの、は弱いですね。
(基本・土台・型がないものは、とも言える)




滔滔と流れる時の中で、
自然と形作られてきた「道理」を無視して作ったものは、
どんなに「いい方法だ」と思った仕組みや考え方でも、
数年経つと、目まぐるしく変わる時の中で、
瞬く間に「合わないもの」「使えないもの」になっている氣がします。
(「時代の徒花」で笑いで済めばいいんですけど)





わたし達は今、大きな渦の中で、
何を信じていいかわからない。
何を支柱として生きていいかわからない。
だから、

「(有名な)この人が言っている」
「これが流行っている」
「みんながこうしている」
「『成功』している人がこうやっている」

を追いかけ、
追い求め、
右往左往している。

(この状態、「精神的孤児」という言葉で、以前書きましたが)






そもそも、わたしたちが、
「正しい」「これが当たり前」「ずっとこうしてきた」
と思っていることも、歴史を辿れば、
戦後ほんの80年でできた「常識」であったり、
わずか160年前には全く違っていた、ということも多々あるわけです。





先に書いた知人が、
「わたしたち日本人を形作ってきたもの」
(自然、風土に自然と育まれてきた文化、価値観、身体観)


の源流を求めて仏教と神道の本も読んでみよう、と思った(切なる)氣持ち
わかるなあ、と思います。





彼は、知ったのだろうと。
わたしたちが「こうだ」と思い込んできたことは、
案外「そうじゃない」ということに。
ぐらり、足元が揺れた。


そして彼はきっと思ったのです。
自分の子どもたちを「孤児」にしたくないと。
デラシネ(根無し草)にしたくない。




たとえ世の中がどんなに渦巻いていたとしても、
自分の足で立って。

他者の作った真実ではない、自分の真実を。
「自分にとっての真の幸せ」を、
(それは自身の心にも身体にも至極自然で心地よく、なおかつ、
世界と自然に調和したものだと思うのですが)



生きる人になってほしいと思ったのだと思います。





決して色褪せない「根っこ」を。美しさを。
幸せに生き抜く力を、
子どもたちの身のうちにすっくと、しなやかに
立ち上げてあげたかったのかなと思います。
(本当に、何よりの宝だと思うんですよね)





(これは、わたしの部屋の紫陽花。かわいい💓)