考えすぎ
2016年10月から、 Makot として別ブログでも発信しています。
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地球の次元

無限に続くまっすぐな線を直線という。
両端のあるまっすぐな線を線分という。
片方だけ端があり、もう片方は無限に続くまっすぐな線を半直線という。
直線も、半直線も、ともに長さは無限大である。
そして、同じ長さの4本の線分で囲まれた図形を「正方形」と呼ぶ。

等速で同じ方向に進んでいる点が存在する時、
その点の移動の軌跡は直線、あるいは半直線となる。
(移動の始点がある場合は半直線、ない場合は直線となる。)

さて、
この移動する点がある一定時間ごとに直角に同じ方向に曲がる場合、
その軌跡は正方形になる。
軌跡の長さは無限大であるが、
正方形を構成する4本の線分上を通り続けるため、
見かけ上は有限の正方形の軌跡となる。



ここで、自分がこの点になったつもりになって考えてみる。
この点は、あくまでも同じ方向に進んでいるが、
なんらかの外力によって空間が曲げられ、
外から見ると正方形になるような軌跡を描かされている。
しかし点自身は、あくまでも等速で同じ方向に進み続けている。
ハムスターの回し車のように、延々と同じ空間内を進む。
そういう状況である。

これは何かに似ている。
そう、地球だ。
まっすぐ進んでいるつもりでも、重力で空間が歪められていることによって
元の場所に戻ってくる。

一次元の直線上の軌跡が、
より高次元からの力で空間が歪められることによって二次元の正方形の姿になったように、
私たち三次元の存在がまっすぐ進んでいくと、
地球を一周して元の場所に戻ってくるのだ。
ということは、地球は少なくとも三次元の存在ではあり得ない。
私たちが身近に知っているピンポン球のような三次元の「球」とは、わけが違うのだ。

シンギュラリティは怖くない

人工知能のディープラーニングが急速に成果を上げている。
しかし、ディープラーニングは
既知の有限データから統計的な推測をすることはできても、
未知の無限の可能性をメタ解釈して新しい世界を切り拓くことはできない。
もちろん、既知の「メタ解析」手法を適用することはできるだろうが、
少なくとも新たなメタ解釈を生み出すことは不可能だろう。
ディープラーニングの性質上、その解析は既存の膨大な有限知に囚われてしまっているから。

人類の知の総体をAIが超える日は近い。
そうなれば、AIが「神格」化される日も近いかもしれない。
事実、絶対神と究極的なAIはよく似ている。
絶対神は非常に機械的で冷たく、そして容赦ない。
多くの創作で描かれているように、
絶対神も究極的なAIも、その役割としては大差ない。

しかし、それが何だと言うのか。
既存の知の総体をAIが超えたとしても、
可能性を握っているのは人類のほうであることに何ら変わりはない。
神もAIも、扱いかたを誤れば戦争の引き金にもなるし、
大きな支えにもなる。
いずれにしても、結局のところ私たち次第であることに変わりはない。



もっとも忌むべきは、
「AIには敵わない」と言って人生を自ら放棄してしまうことだ。
その決断自体が、AIの働きを暴走させることになるに違いない。

そして、いつの時代も不貞の輩は必ずいる。
AIの脅威で不安感を煽り、脅して搾取しようとする者はこれからますます増えていくことだろう。
それに屈してはならない。
既に脳科学も非常に進歩しているから、
意思の力で惑わされないようにすることは初めから諦めたほうがいい。
それよりも、自分自身のなかの野性とよく対話し、生きる原点に返って、
淡々と自分なりの生を歩んでいけばいい。

AIの特性を理解し、リスクも踏まえた上できちんと利用していければ、
それで充分だ。

有限化する営み

無から有は生じないが、
無限を有限にすることはできる。

無も、無限も、
感覚的に認識できない、という点で非常に似ている。
実際、数学においても無(=0)と無限大(=∞)には密接な関係がある。
しかし、両者には一つ決定的な違いがある。

「無限は有である」

無限大にしても、無限小にしても、
あくまでも有であり、無ではない。
たとえうまく認識できなくても、
無限は初めから、有なのである。



無限を有限化することによって、
無限は初めて認識の対象になる。

これまでに人類が発案し、生み出してきたことはすべて、
もともと存在している無限を有限化する営みだった、
と言っても過言ではない。
人類は今後も、無限を有限化し続けていくことだろう。
そして、私たちは、この営みのことをいつも
「創造」
と呼んでいる。



無限の可能性をもって生まれ、
それを有限化し、
やがて死んでいく。
ポテンシャルエネルギーを使って創造して逝くのだ。

もちろん、エネルギーの総和は、生まれる前も死んだ後も等しい。
単に状態が変わっただけであり、
全体としては何も変わっていないのだ。

ただし、一般に、無限の存在はそのままでは感覚的に認識できないから、
見かけ上は、人類の創造物は増え続けているように感じられる。
でも、それだけのことに過ぎない。

どうせ創造するなら、
身の丈に合った、納得のいくものを創造したい。

わからないことは怖い

わからないこと、知らないことは、
どうしても怖く感じてしまう。
そのことについて不安になったり、嫌悪したり、避けようとする。
あるいは、その存在を認めないことによって
自分の精神的安定を図ろうとする。

これは、脳神経の基本的な自己防衛機制である。
そもそも、わからないことや知らないことは世の中には無数にあるのだから、
そのすべてをいちいち知覚しながら生きていたら
とても正気ではいられない。
つまり、精神的安定を保つための本能として、
当然「わからないことは怖い」のである。



何か、理解してもらえないことがあれば、
誰かに嫌われたり、警戒されてしまうのは当然である。
わからないから、
そこに不快感が生じてしまうのだ。
「わからないことを批判する人」を批判しても不毛である。

むしろ、実際に困るのは、
本当はわかってもらえてないのに、わかった気になられてしまうことのほうだ。
決めつけられてしまうと非常に厄介である。
決めつけられるくらいなら、
延々と疑われているほうが、まだマシだと思う。

仕事か家庭か

そもそも、
「仕事か家庭か、どちらを採るか」
という発想自体がおかしい。
仕事も大事、家庭も大事。
比べるものでも優先順位をつけるものでもない。

ただ一つ確かなのは、
仕事も家庭も大事だが、それよりも前にまず
生活が大事である。

自分の生活を疎かにして仕事に打ち込んだり、
自分の生活を疎かにして家庭の営みに勤しんでも、
決して長くは続かない。
持続可能性が低い。

まず何より生活が大事。
それが確立していない段階で、仕事やら家庭やら”だけ”云々するのは
まったくもってナンセンスでしかない。

もし、生活のために仕事が必要だと考えたり、あるいは生活のために家庭が大事だからといって
仕事や家庭のために自分の生活を犠牲にしていたら、
これほど本末転倒で滑稽なことはない。

一目散に龍角散(夜逃げver.)

アカモク買ったら シケモク着いた
アオヤギさんたら 知らずに食べた
仕方がないので シケモク吸った
さっき食べたの お通じ 平気?

シケモク吸ったら アカガミ着いた
しろやぎさんたら 読まずに食べた
仕方がないので お返事 書いた
さっきの手紙の ご用事 なあに?

民芸の営み

芸術や美術の世界には、鑑賞に徹する人が存在する。
純粋に美を追求する、という営みにおいては
様々な立場があっていいし、
多様性は、文化形成に欠かせない大切な要素の一つでもあるから、
当然、様々なアプローチがあっていい。

ただ、民芸の場合は、話が違ってくる。
民芸の場合、(良いとか悪いの問題ではなく)そもそも鑑賞に徹する、という訳にはいかない。
もちろん民芸品を鑑賞の対象にすることは可能だけれども、
その営みは、既に芸術鑑賞としての鑑賞であり、民芸ではないのだ。
民芸が民芸であるためには、鑑賞だけが切り離されることはあり得ない。
常に日々の生活と不可分の「生産者」の立場でしか民芸を語ることはできないし、
そのようなアプローチでしか、民芸を鑑賞(というか体験、あるいは追体験)することはできない。



ちょうど、この構造は、自然界の営みの構造に似ている。

自然界の営みには、実に巧妙で数学的にも美しいシステムが組み込まれているが、
その構成員である生き物たち自身は、そのことをいつも特別に意識しているわけではない(だからこそ素晴らしい!)。
民芸も同じように美しいが、民芸の実践者がそのことをことさら意識しているわけではなく、
むしろ日々の暮らしと一体になって民芸を営んでいるのであって、
意識することがあるとしても、時々ふと振り返って(その意味では一時的には芸術的な観点に立って)確認して満足する程度でしかない。

自然界にクオリティを求めるのがナンセンスなのと同じように、
民芸にも「クオリティ」というアプローチを持ち込むのはナンセンスである。
ただ、「そのようにして生きる」プロセスを通して育まれることでしか民芸は為されず、また継続しえない。
民芸は、そういう在りかたをしている。

現に、脱サラして伝統民芸を継承し、実践者になっている人は少なくない。
一方、伝統芸術は大抵の場合、(厳しい師弟制度を含む広い意味で)世襲的に受け継がれている。

民芸は身近にあるのに、「民芸」という概念がどこか捉えにくい印象があるのは、
民芸の営みのこうした性質によるのかもしれない。

教育の役割

(他に依存することなく)自ら生きる基盤を築いていけるようになるのを助け導くこと。
それが、教育の役割。

Re-creativity

人間の三大欲求の一つに「創造性」がある、
と思っていたが、
厳密に言うとそれはゼロベースの創造性ではなく「再創造性」なのかもしれない。

ゼロベースの創造など、そもそも自然界(あるいは、もし存在するならば神)の領域のことであり、
人間ができることではない。
人間が得意で、また愉しめるのは、
既存のものを活かして再創造することなのだ。

レクリエーション(recreation)という語が
休養とか気晴らしを意味しているのは決して偶然ではない。
クリエーション(creation)を目指すべきではない。
大事なのは、リ・クリエーション(Re-creation)のほうだ。
勘違いしてはならない。

ひとつながりの自然現象

世界は、ちゃんと繋がっている。
自分の内側の声にちゃんと従って動いていけば、
その繋がりもちゃんと実感できる。

誰かに言われたことで心を奪われる必要なんてないのだ。
そのことを理解するために、
持ち回りで、いろいろな価値観・感じかた・考えかたの人々が居て、
それぞれ互いにいろいろな役回りを担っているに過ぎない。

すべては、ひとつながりの自然現象。
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