ハザマランド -21ページ目

巻

「さぁ、飛び込め」

 船上で誰かが叫んだ。叫び声のはずだった。一拍も置かぬまにかき消されてしまったが、この状況で鼓膜に届いたほどだ。よほど強く叫んだのだろう。

 周囲三百六十度。暴れていない空間などどこにもない。空と海。風と水。

 目の前の全ては、猛然と、回転していた。

 いったいどれほどの速度を出せば、一定方向に回る渦潮の中、さらに逆回転する十字の幻を見るというのだろう。風の渦に至っては幻を見るどころではなく、天の先まで伸びている。

 これに飛び込めと、そうでなければ生きられぬと、また誰かが叫んでいる。

 ああ、山が恋しい。大地が恋しい。佇む木々がなつかしい。

「急いで……選べ……高み、深み、巻かれてなお己が目指せるものを……」

 叫び声は途切れがちになり、ついには轟音の一つとして飲まれていった。

 最後の一声。

「この嵐は永久(とわ)に止まない」

岐路

 これと決め、歩いてきた長い道。ずっと一本きりだと思っていたが、ある日、Y字になった場所に出た。なぜか道の交差点にはポストが一つ立っている。なんの変哲もない赤い箱。こんなものに構っている暇はない。

 さて、どちらへ行こう。

 右側はこれまで歩いてきた道と似て、粗いながらも行き交うものは少なく、のんびり行けそう。しかし道の先がすぐ見えなくなっている。

 比べて左側は整っているぶん、いかにも交通量が増えそうな、これまでと違う道。道の先は同じくはっきり見えないものの右よりは見通しがよい。

 さぁ、これまでの道から変わるべきか、変わらざるべきか。いや、変わらざることだって、溜まり溜まった力が後に大きな変化を生む可能性だって十分ある。

 迷う。迷う。迷いながら空など仰ぎ見たりする。

 でっかい空の内側で、ほわりと浮かんだ白雲が音なく道の先へと流れてく。

 こちらもそろそろ動かねばならない。

「よし。決めた」

 まずは足を休めて、手を使おう。

 バックの中のハガキを取り出すと、四角い口がにやりと笑った気がした。

栽培途中

 種を植えました。
 もう、ずっと前に植えました。
 でもまだ芽吹いていません。
 世話が足りないのでしょうか。
 育て方が悪いのかもしれません。
 さきほど私は植えた気配がとうに消えたその場所をじっと眺めてました。
 今日も、土は盛り上がっていませんでした。
 でも明日こそはと思います。
 そのために澄んだ水や、まだ熱のある肥料を探すつもりです。
 私はまだ育てていこう、花咲くときまで、そう思い明日を迎える毎日です。

高鳴る気配

 空はすこぶる青く、雲は高々と乱れ積みされ、刺さる日差しを避けて木陰に入れば、アブラゼミの謳歌が豪雨のように降ってくる。街を離れ景色が開けると、田園の中で青い稲穂が低い体を揺らし、赤トンボが縦横無尽に行き交う。
 どこにいっても命が騒いでいる。
 夏だからだ。
 それなのに……
 汗ばんだ右手を自分の胸に持っていく。
 それなのに、俺の鼓動は悲しいほど穏やかに脈を打つ。いつからだろう。夏がただの過ぎ行く日々へと変わったのはいつからだったろう。
 眉間を寄せながら頭上を仰ぎ見る。
 眩しいほどの白い雲。
 声に出せば、少年と呼ばれた日が少しは戻ってくるだろうか。あのときの俺は起きてくるだろうか。
 瞼を落とし、目覚ましを鳴らしてみた。
「夏である」

蝶

 最近、やたらと蝶を見かける。

 夏真っ盛りなだけに、さほど不思議がる必要もないのだが、なぜか気になっている。

 出掛けた先でふと視界の隅を横切る彼らは、何かを伝えようとしているのだろうか。虫語を解せない私は、ただ、虚空を漂う彼らを視線で追いかけるのみ。

 蝶は人間の魂の化身。

 なんて言葉もあるようだが、虫語と同じく、霊感も持たない私は、見えざるものではなく、広げた羽の彩りに目を細めるくらい。

 思うことといったら、盆が近いな。

と、それぐらいである。

縁=円

 私には気になっていることがある。

 それは縁と円。これら二つの言葉に音以外の相似があるように思えること、だ。

 たとえば、友人、恋人、親、兄弟。または職場という集合体。これらが距離的、精神的な近くを表すのが縁。

 そこに円を見いだすとすれば何だろう。

 まず思いつくのは、一方的ではない思いだ。自分が相手を考えるように、相手も自分を考える。それは自分と相手という、動かぬ二つの点を周回する動きだから、円とたとえても差し障りはないだろう。

 だが、それだけでは、どうも私は物足りないような、納得できないような中途半端な気分になってしまう。

 『円』にはもっと深い意味が隠されている。

 根拠などないのだけど、私の浅い思考のどこかあさっての方向で、その言葉が点滅しているのだ。

 そこで私は円ができる肯定を思い描いてみた。

 点と点が繋がり、線になる。線は繋がり、円になる。

 なんだろう。ここで思考を止めてはいけない気がする。

 円。円は重なり、球になる。球は、球は、遠く離れれば点になる。

 待てよ。この行程も一つの円とは言えないだろうか。ならば、縁もまた長い巡りの中の点であり、線であり、円であり、球と言える。この理論は私の願望が生んだこじつけかもしれない。

 けれども全ての生物は生きている以上、いや、死んでなお、繋がりの一部であることはまぎれもない事実。

 ならば次に思うことはただ一つ。

 私は今、ゆたかな円を描けているのだろうか。

『する』『ある』 -ゲド戦記 第三巻 さいはての島を読んで-

 久しぶりの記事投稿。
 ちょっとある作品を書いていたので、更新が滞っていたわけだが、おかげでただでさえ少ない訪問者をさらに少なくしてしまった。
 と、いうより、備え付けのカウンターの示す数字は、このところ0か1のどちらかだったようである。
「オレは二進法かっつうの!!」
 カウンターが口をきけたら、きっとそうツッコンでいるはずだ。
 そんな粋なカウンターに、毎日ただ一人の訪問者をいつかいつかと病に侵された患者のごとく待ちわびさせるのはあまりに不憫。
 そこでワタクシ、一つ有名な作品の力を借りて、一時的にでも訪問者を増やす作戦に出ようと思う。
 名づけて、『五月、母の日。六月、父の日。七月、いつもありがとカウンターさんの日』作戦。
「なげぇよ」と、カウンターの裏拳が今にも胸を打ってきそうである。
 我ながら、なかなかのアシスト。
 このブログは過疎化に苦しむ村長も、「あそこほどではない」と、安心させる愛に満ちたブログだが、たまには村長を下に見たい、もとい、発奮させねばと心を鬼にして、有名作品の引用をさせてもらうことにする。
 それはずばり、『ゲド戦記 第三巻 さいはての島』である。
 みなさん(あえて、団体を想定してみる)、お気づきになられた方もいるでしょう。
 そう、ゲド戦記とは、今夏、ジブリ映画最新作の原作でもある。
 そもそも、ゲド戦記とは外伝を入れ、六冊ほど出版されているのだが、今回ジブリはその中の三作目に最も注目したとのこと。(確かに、さいはての島では、何かと考えさせられる部分が多い)
 しかし、ジブリは三巻一冊だけをアニメ化したわけではないようで、映画の主題歌である『テルーの歌』の少女テルーは四巻目の『帰還』からの登場であるし、ほかにも混ぜた部分や省いた部分が公式サイト(
http://www.ghibli.jp/ged/ )を覗いてみるとちらほら発見できる。
 ちなみに個人的には第一巻 影との戦いでは、クライマックスが、第二巻 こわれた腕輪では、後半の中あたりがおもしろかった。
 ……と、いかんいかん。またもや話が逸れかけている。カウンターにどつかれる前に本題へ入ろう。
 ワタクシが引用したい部分は以下である。
 「よくよく考えるんだぞ、アレン、大きな選択を迫られた時には。まだ若かった頃、わしは、『ある』人生と『する』人生のどちらかを選ばなければならなかった。わしはマスがハエに飛びつくように、ぱっと後者に飛びついた。だが、わしらは何をしても、その行為のいずれからも自由になりえないものだ。ひとつの行為がつぎの行為を生み、それが、またつぎの行為を生む。そうなると、わしらは、ごくたまにしか今みたいな時間を持てなくなる。ひとつの行動とつぎの行動の間のすきまのような、『する』ということをやめて、ただ、『ある』という、それだけでいられる時間、あるいは、自分とは結局のところ、何者なのだろうと考える時間をね。
 ここでワタクシが言いたいのは、自分とは何者だと考える時間も、結局は自分がやりたくてやっているのだから、つまり思考『する』のだから、『ある』ではなく、『する』の一部分という、矛盾点をつくことではない。
 気づくべきは、その矛盾点も含めて、意識すること。
 この一点につきる。
 これまでの日常に、二つの言葉をドドンと投げ込んでみることが、最も重要なのだ。
 そもそも、『する』という行為も突き詰めていけば、自分が何者かを示す一つの『ある』なのだ。
 ありきたりな言葉だが、『ある』と『する』は表裏一体なのだ。
 ただ、それらを意識するとき、あなたの中で何かが変わる、はず。
 少なくともワタクシはそうだった。
 では、ここでその意識のお手伝いをさせていただくために、最後にこの言葉を投げかけて久しぶりの記事の終了です。
 あなたは、今、どちらですか?
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アーシュラ・K. ル・グウィン, 清水 真砂子
ゲド戦記 1 影との戦い
アーシュラ・K. ル・グウィン, 清水 真砂子
ゲド戦記 2 こわれた腕環
アーシュラ・K. ル・グウィン, 清水 真砂子
ゲド戦記 3 さいはての島へ
アーシュラ・K. ル・グウィン, 清水 真砂子
ゲド戦記 4 帰還
アーシュラ・K. ル・グウィン, 清水 真砂子
ゲド戦記 5 アースーシーの風
アーシュラ・K・ル=グウィン, 清水 真砂子
ゲド戦記別巻 ゲド戦記外伝
アーシュラ・K・ル=グウィン, 清水 真砂子
ゲド戦記 全6冊セット
手嶌葵, 宮崎吾朗, 寺嶋民哉
テルーの唄 (ゲド戦記 劇中挿入歌)
手嶌葵, 宮崎吾朗, 塩谷哲, 小倉博和, 中脇雅裕, フェビアン・レザ・パネ
スタジオジブリ・プロデュース 「ゲド戦記歌集」
寺嶋民哉, カルロス・ヌニェス
ゲド戦記・オリジナルサウンドトラック

雨

 その子の上に傘は開いていなかった。

 だからその子は黒雲から落ちてくる白線を、見つめながら受け止めることができた。

 顔を上げたまま、両腕を伸ばし、掌を広げる。

 触れたかった。

 空から降りて、遠い下の地まで降りていき、生き物を巡り、大海原を泳いで、いずれ空へと還るもの達を、その子は迎え出したかった。

 もっと言えば、共に連れて行って欲しかった。

 太陽を遮る雲は暗く大きな影を落としている。

 その子の旅はまだ、始まらない。

足長おじさん

 謎の人がいる。

 俺はその人のことを性別も年齢も、名前さえ知らない。

 その人は仮面で言葉を遮り、マントで体を隠し、電子の靴を履いている。

 美術館内を巡るように、このブログの中を無言で見渡し、そのまま音なく帰っていく。

 知る術がないわけではない。その人がどこから来て、いつここを覗いているのかぐらいは、知り得ることができる。

 だが、俺はそれをしない。

 黙って立ち去るその人を追いかけたりしない。

 読んでくれている。

 それだけで十分なのだ。

 感謝をしている。

 だから、今日はあなただけのために書きました。

 ありがとう。

 あなたは俺の足長おじさんです。


ランキング

 ここは水の中。

 たぶん、それなりに深い水の中。

 見上げると、絶えず揺らめく青の中で、きらめく光の群れが飛び込んでは飛び出していく。遠くてよくは見えないが、光は出て行くとき、自分と同じように泳いでいるものを乗せているようだ。

 光が水を出て、どこへ行くのか自分はまだ知らない。

 知っていることは三つだけ。一つは光に乗ったたあいつらと、自分に共通するのは泳ぐものだということ。そして泳いでいるところを見られているということ。最後の一つは同じ泳ぐものでありながら、あいつらはたくさん見られ、自分はあまり、というか、ほとんど見られないことだ。

 見上げるとわかる。ここの青は深くて濃いのに対し、上の青は明るく薄い。

 どうやら自分を含め、ここを泳ぐもの達は、見られれれば見られるほど、体が軽くなっていくらしく、透き通った場所で泳げるようになるらしい。

 そして軽さが最高に達したとき、光に乗れる。

 だが、自分のいる場所は深くとも底ではない。

 見下ろすと、光に乗るどころか、泳ぐことすら止めたもの達の沈んでいく影が、藍色の奥で揺らめいたりいる。藍色の先は暗くて見えないが、底の方ではさぞかし積もっていることだろう。

 上過ぎず、下過ぎない。

 自分はそこを泳いでいる。

 上に行きたくないといえば嘘になるが、今はまだ早いとも思う。

 下に沈んだこともあるが、今はまだ、しばらく泳げそうだ。

 たまに出会える、同士と語りつつ泳ぐのも楽しい。

 さて、自分を見てくれる数少ない観客に、今日はどんな泳ぎを披露しよう。


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