エジプト「国」のアイデンティティ | ぶらり旅S

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戦後すぐの生まれ。灌漑、水資源、農業、発展途上国への技術協力などを中心に、大学で研究、教育をしてきて、現役を退きました。研究の周辺で、これまで経験したこと、考えたことを、今考えていることも含めて書いてみたい。

 

我々の研究プロジェクトでは、若いエジプト人の研究補助員を6人ほど雇っていた。彼らの多くは大学を出たばかりで、ほとんどの若者がふさわしい職を得られない社会状況の中、専門の仕事ができるということで応募してきて、面接採用されたのである。そのうちの一人、サミール君がある日、仕事を辞めたいと言って来た。サウジアラビアに働きに行くという。海外に行くということでちょっと驚いたが、考えてみると、アラビア人は、中東から北アフリカ一帯に広く住んでおり、方言の違いはあるにせよ、アラビア語は共通している。エジプト人が母国語を使って周辺国で働くことは容易なのだ。

 またプロジェクトの事務所で働いてくれていたムハンマド君は、カイロ大日本語学科の卒業で、自由に日本語を操り、多くの漢字の読み書きができる素晴らしい能力を持っている。日本のお土産のお菓子を配ると、細かい字の材料欄を見て、「これ私達にはダメです。お酒が使われていますよ」と注意してくれるのであった。彼は、プロジェクトの途中で仕事を辞めてから、アルジェリアに働きに行って、そこで奥さんを見つけた。

 このように彼らが自由に行き来することができるのは、周辺の国がアラビア人の国だという特殊な環境によるのだが、そうなると、逆に、アラブのそれぞれの国は何なのかというアイデンティティ(国家意識)問題が生じる。エジプトがエジプトとしてまとまるためには、周辺のアラブの国とは違う何か特別なものが必要になるのだ。

 国のアイデンティティというのは、もちろんアラブだけの問題ではない。日本でも、「日本人とは何か」という議論は絶えることがない。戦前はもちろん、戦後も現代に至るまで、陰に陽に「ニッポン」の独自性とまとまりが強調されてきている。スポーツ、とくにオリンピックなどは国民意識を高揚させる手っ取り早い手段であろう。ちなみにエジプトでは、現在、リバプールFCに所属しているサラー選手が国民的英雄になっている。

 

 「国家」は国民を守ってくれるはずの存在である。しかし一方、国家は自国のために世界の富を囲い込むとともに、国民の様々な自由を束縛し、強制する(個人の意志に反して戦争に送るなど)負の側面をもつ。ジョン・レノンの”イマジン”という曲は、それに対するプロテストとして、国家というものがない平等かつ自由な世界への願いを歌っている。私の好きな曲であるが、現実世界では、そちらへ向かう動きが弱まり、勝ち組国家の自分ファーストがあからさまに追求されているのは残念である。しかし、ある地域に住む人達が、自分達が何者であるのかを認識するのは、国家の問題とは別で、意味のあることである。

  

  そこで話をエジプトに戻すと、アラブ諸国に囲まれたエジプトにとって、エジプト人とは何か、何がエジプトをエジプトとしているのかは、現実的な意味をもつ深刻な問いかけである。エジプトと言えば、何と言っても紀元前3千年から始まったエジプト文明だ。このナイル川を中心にした繁栄の歴史がエジプトの財産であり、エジプトのアイデンティティの中心になるのは当然であろう。ところが、この文明を築いたのは、アラビア人ではなくて、ラムセス2世やツタンカーメンであり、古代エジプトの壁画に描かれている人びとである。彼らがどのような民族であったかは、いろいろ説があるようだが、少なくとも何人かの古代王朝のファラオは、現在、カイロの南方、アスワンからスーダンにかけての地域に多く住むヌビア人だったという。

 (しかし、古代エジプト人がヌビア人であったという訳ではない。アスワンの南、ナセル湖畔にあるアブシンベル宮殿には、ヌビア人を捕虜にし、縄で縛っている彫刻壁図がある。古代エジプト人は、その後に入ってきたアラブ人と混血し、アラブ人の中でもエジプトのアラブ人と言ってもよいような風貌の人を作っていると、上智大岩崎えり奈先生に教わった。2019年9月追記。)

 

 (壁画の人物。獲物の鳥と農作物。サッカラ、2004年)

 

現在エジプトを実質的に動かしているのはアラビア人であることは誰しもが認めるであろう。しかし彼らは、7世紀にエジプトに入ってきてこの地を「征服」あるいは「定着」した民族である。私がおもしろいと感じたのは、そのアラビア人(エジプト人)が、古代エジプトを「エジプトの歴史」として、自分達のものと考えているようであることだ。もちろん、エジプト政府は観光資源として古代エジプトの遺跡を最大限に宣伝、利用している。

 

(ギザの道路から見るピラミッド)

 

はじめ、私はこれをアラビア人の傲慢であり、古代エジプト人の歴史を盗むことになるのではないかと思った。しかし、これをしばらく考えると、これを日本人は批判できるのだろうか、と思うようになった。それは、日本も、旧石器時代から始まり、縄文時代、弥生時代、古墳時代を経て歴史時代に入ったわけで、その歴史の中で、現代人の多くを占める人種の祖先は、縄文人やアイヌの人たちなど先住民を追いやるようにして、勢力を拡大したからである。旧石器時代や縄文時代など先住民が作った歴史を、全く異なる人種かもしれない現代日本人がすべて「日本」の歴史、文化として自然に捉え、疑うことはない。

 このように日本と比較してみると、エジプト人(国)とは何か、というアイデンティティ問題は、複雑であり、奥深いものであることが理解される。

 

(注)エジプトでは、ガマール・ヒムダーン(1928-1993)という地理学者がこの問題(エジプトとは何か)に正面から、真摯に取り組んだ。

 彼は当時の政府の政策に迎合することなく自説を主張し、そのせいでカイロ大学を辞職、隠遁生活に入ることになった。私がエジプトで出会った知識人のほとんどすべてがヒムダーンを知っていた。それほど影響力の大きい人物だったようだ。

 ナイル川を利用する古代からの灌漑の管理は、エジプトを特徴付ける重要な側面であることは当然としても、彼がアラビア人によるこの地の「征服」をどう捉えようとしたのかが注目されるところだ。

 彼の仕事の詳細は、東京大学東洋文化研究所の長沢榮治教授が書かれた「エジプトの自画像 ナイルの思想と地域研究」(平凡社、2013年)に紹介され、論じられている。興味のある方のためにここに紹介する。

 

(長沢栄治著「エジプトの自画像」)