犠牲祭と宮沢賢治 | ぶらり旅S

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戦後すぐの生まれ。灌漑、水資源、農業、発展途上国への技術協力などを中心に、大学で研究、教育をしてきて、現役を退きました。研究の周辺で、これまで経験したこと、考えたことを、今考えていることも含めて書いてみたい。

 イスラム教には犠牲祭という大切な祭がある。その背景は次のようなものである。神(アッラー)がイブラヒム(アブラハム)に息子のイスマーイール(イサク)を犠牲として神に捧げるよう求めたところ、イブラヒムは惜しまず息子を差し出すことにした。そしてまさに自ら刃物で息子を殺そうとしたところで神が止め、代わりの獣を用意したという(旧約聖書では創世記第22章)。これは神がイブラヒムの信仰心を試すために行ったことだった。そのことから、イスラム教では、各年のメッカ巡礼の最終日からの数日、重要なお祭りとして犠牲祭が行われる。その時、経済的に余裕のある人は、「犠牲となる動物を神に捧げることが定められている」という。その肉を貧しい人たちに分け与えることは大きな功徳になるというのである。

    私は、一度その様子を見てみたいと思っていたところ、2014年に機会が訪れた。1週間前くらいから、ドッキの街では、ところどころに簡易な柵が作られ、羊や牛が囲われたり、つながれていたりするのを見かけるようになった。しっかりと餌が与えられていて、動物たちはのんびりと過ごしていた。

 

(犠牲祭のために集められた羊と牛)

 

 当日の朝、街にはいつものようにお祈りの放送(アザーン)が流れ、とくに変わった空気はない。ようやくその時が来て、肉屋の前に連れてこられた羊が2頭おとなしくしている。すると、とくに大げさなお祈りの儀式などなく、突然に屠殺が始まった。肉屋のおじさんが頸動脈を切るが、始め、羊は自分に何が起こったか理解できていないようであった。そのうち,苦しくなったのかその場で横になったままもがくが、肉屋はいつも履いている仕事用の白い長靴で頭を踏みつけ、しばし押さえる。その後、頭部を切り落として屠殺は終わる。そして、手早くきれいに毛皮を剥ぐと、真っ白な皮下脂肪に覆われた肉の塊が現れるのである。それを逆さにつるして血抜きし、内蔵を取り出せば、すぐに解体してお客に売る。これらすべての「作業」が通りの歩道で行われるのだ。むろん、道路は赤く染まっている。

 

(肉屋の前、解体を待って肉を買おうと集まった人たち)

 

 初めて見る光景に息をのんでいると、横に男の子が一人、じっとこれを見ているのに気がついた。親も同伴していないで一部始終をつぶさに見ていたのである。改めて気がついたが、女の子も含め、子供達が結構いるのに驚いた。日本で犠牲祭の様子をネットで調べれば、多くの場合、屠殺の生々しい様子の写真は避けられて、写っている場合には、あらかじめその旨注意書きがしてある。日本人には「刺激が強い」屠殺の一部始終をエジプトでは子供が一人で、あるいは友達同士で見ているのである。屠殺そのものはもちろんであるが、むしろこの違いのほうが強いインパクトであった。

 エジプトのイスラム教徒は、子供の頃からコーランを学んでいる。そして、イスラム教は、キリスト教、ユダヤ教とともに、いわゆる旧約聖書を共通にする一神教である。旧約聖書によれば、この世の天地を創ったのは神であり、太陽、陸地、海などだけでなく、植物や家畜を含めすべての生き物も神が造った。そして人間は、「神は自分の形に人を創造された」のであって、「すべての生き物」を治めるようにと役割を与えられた特別の存在なのである。

 もしそうであれば、家畜が人間によって屠殺され、食べられるのは当然のことであって、それはむしろ神の指示に従うことである。日常的にコーランを暗記する教育を受けている子供にとって、目の前で人間によって家畜が屠殺され、食料になっていくことは、コーランに書かれていること、その正しさを確認することになるのではないのだろうか。家畜の血が流れ、もがき苦しむことに何の恐ろしいこと、後ろめたいことがあろう。一人でじっと一部始終を見ながら、アッラーの偉大さを心に刻み込んでいるのかも知れない。

 しかし日本では、状況は全く異なる。山にも川にも、木にも、あらゆるところにそれぞれ神様がいて、人間も自然の中の一員に過ぎず、生き物、とくに動物の命を頂いて自分の命をつないでいるという意識がどこかにあるように思う。

 宮沢賢治の作品に「よだかの星」という童話がある。よだかという地味で弱い鳥が、周りの鳥たちからいじめられている。ところがそのよだかは、虫を捕って食べている。いじめられる自分がもっと弱いものをいじめ、食べていかざるを得ない。そんな矛盾に心が痛み、「つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう」と考える。そして、最後には、夜の星に自分を連れて行ってくれるよう頼みながら空高く飛んで、ついには自ら青くしずかに燃える星になるという話である。

 同じ宮沢賢治の童話には、「なめとこ山の熊」や「注文の多い料理店」など、人間と狩の対象である動物の関わりを描いた作品がある。そこには、人間があらゆるものの頂点に立ち、動物を殺して当然であるという考えはない。宮沢賢治は、深く仏教を信仰していた。

 イスラム(一神教)では、神がそれで良いのですと認めてくれることで、よだかの苦しみからは解放されるのであろう。それを小さいときから、そういうものだと自分に刻み込みながら成長していくのである。その結果、家畜の肉を食べるという行為はエジプトでも日本でも変わらないのに、神(アッラー)を信じる人とそうでない人(日本人)の間には、異なるフォーマットがなされたメモリーのように、渡るのが非常に難しい溝ができてしまうように思う。

 もちろんそれはどちらが絶対に正しいというものではない。互いに相手を理解し、相手の価値観を尊重することのほか平和に共存するすべはなさそうである。

 

(注記)

 1) ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教の間に、いわゆる旧約聖書(この表現そのものがキリスト教のものである)の表現や解釈に多少の違いがあるかも知れないが、確認していない。

 2) 旧約聖書は、日本聖書協会1967年発行の「聖書」中の旧約聖書(1955年改訳)を使用した。

 3) イスラム教の社会については、新曜社2006年発行の小杉泰・江川ひかり編「イスラム 社会生活・思想・歴史」を参考にさせて頂いた。

 4) 私の小さい頃(昭和30年代)、東京で、私の父親(群馬の農家出身)は飼っていた鶏を私達兄弟の目前で絞めて食べさせた。それはそれほど珍しいことではなかったように思う。日本人は日常的に肉を食べながら、家畜の屠殺や屠殺の仕事については隠したがる傾向が、最近とくに強いように思う。しかし、それはよろしくないという考えもある。私の知人の一人は、かつて、若い人を集めて敢えて羊を屠り、そのままたき火で焼いて食べるという場を提供していた。

 5) 広く知られていることだとは思うが、イスラムでは、ただ簡単に動物を殺して良いとされているわけではないことに注意しておきたい。彼らには、ハラルという厳密な規則に基づいて適法とされるものしか食べることが許されない。たとえば豚肉を食べてはいけないだけでなく、羊などの屠殺にあたっても、家畜に与える苦痛を最小限にするような配慮がなされる。