長編お話「普遍的なアリス」の42 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

ソウスケの家は静かだった。
「梓さんは?」
私は兄に尋ねた。
「何処かにはいるだろう。」
ソウスケはいつものようにそう言った。そう、梓さんはいつだって何処かにはいる。それは、どこにもいないことと何が違うだろう。少なくとも梓さんにとって、いいえ、違う。ソウスケにとって、梓さんがどこにいるのかどんな意味を持っているだろう。

不幸な女性だ。と私は梓さん、義理の姉を憐れに思った。ソウスケなんて、好きになったりするから。いずれ死ぬつもりでいるような人を好きになったりするから。

「うそだったでしょう。」
私は言った。
タクシーを降りて、裸に毛布をまとっただけで、ソウスケに抱えられて、私は二ヶ月ぶりに、私たちの家に戻ってきたのだった。
「うそを付いていたでしょう。」
私は、すぐにお風呂場に連れていかれた。ドアの向こうには、新鮮なお湯の匂いが満ちていた。
「なにがだ。」
ソウスケは私を毛布ごと脱衣場におろして立たせると、シャワーカーテンを閉めて、
「俺は部屋にいるから、着替えは自分で用意しなさい。」
と言う。

「私がモレナを見つけないと死んでしまうって。嘘でしょう。本当は、嘘だったでしょう。反対でしょう。
私がモレナ、あなたの性欲に気付いたら、死んでしまうつもりだったでしょう。」
私は毛布を体からはずして、何も着けていない肉体のままソウスケのこちらがわに立っていた。

いつもそう。

私とソウスケの間にはこんな壁がある。布一枚ぶんでも充分な壁。けして越えてこないソウスケ。

「そうだ。」
声だけが聞こえて、それきりあちらがわには何の気配も無くなった。

私は、懐かしい、白くて暖かい、安心な湯船の中で、縮こまって座ったいた。
ともかくも体を洗わなくてはならない。今しなくてはならないのは、先ずそのこと。
改めて、私は信行に徹底的に痛め付けられていたのを知る。
腕と言わず、胸と言わず、痣やかさぶたがたくさん出来ていた。手首についた跡はもう消えないかもしれない。

改めて、ここが私の現実。逃げられない最後の現実。
それに思い至り、信行の暴力を初めて暴力と認知出来たので、湯船の中で肌が冷えた。
私は冷や汗をかいてお湯からあがったのだった。

家出をするときに、あらかた荷造りしてしまって、それは信行が何処かに持っていってしまっていたんだけど、それでも少しだけ残っていた衣類をあさって私はTシャツとスカートに着替えた。まるで鎧を着たようだわ、と思った。

「ユイ。」
ドアの外に兄の声がする。ユイ。いつもの声がした。声の後から少しして、兄は私の部屋に入ってくる。

私は自分のベッドに座っていた。ソウスケは、ひざまづくように私の目の前に腰をおろした。
「体の具合は?医者にいかなくても大丈夫か。」
と訊く。
「今日は何か食べているのか。腹は減っていないのか。」
とも訊く。私は、
「あなたはどうなの?」
ソウスケの片手を捕まえた。右手。ソウスケは反射的に引き抜こうとしたが、私の力よりは強くなかった。

私はソウスケの手の平に顔を押し付けて、目を閉じた。
「止しなさい。」
と言う。

「信行を殺したかったでしょう。」
「俺はそんな事を考えたりしない。」
「ずっとこうしたかったでしょう。あなたのモレナはどこにも逃げたりしなかった。常にそこにあった。だから私には嘘をついた。

あなたは私が生まれたときから、ずっと私に触れていたかったでしょう。」
「お前は。」
私はなお、強く力を込めて兄の手を逃がさなかった。

「…お前は俺に与えられるために産み落とされた。
その事は、お前を見た瞬間から分かっていた。
これは俺に与えられるべきものなんだと。このいやらしい大人たちではなく、俺のために現れた存在なんだと。
分かっていた。
そして、絶対に俺のものにはならない存在なのだと。
俺はちゃんと分かっていたさ。」
と言う。