小説「一人芝居・外科室」 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

入ってみたらもう始まりかけている様だった。私はしまった、遅れたか、と後悔しつつ、演者を邪魔しないように小さな声で、カウンターのオーナーにジンジャエールを頼んだ。
店主は黙って良く冷えた瓶と、氷の入ったガラスコップを渡してくれる。
「ありがとう。」
と私は言った。支払いは、観てからだ。
 
パフォーマンスカフェと言って、それが営業目的ではないから、いわばオーナーの趣味で、いつもではないのだが、様々なパフォーマンスをする人達がこのカフェにやってくる。
基本的に観覧は自由だが、投げ銭を要求することは自由だし、面白ければ帰りしなにチップを渡していく人もいる。
 
出演者は様々で、コントや漫才をする人がいたり、朗読やポエトリーリーディングをやったり、あるいはオーソドックスな大道芸や、楽器の演奏、寸劇、ジャンルを問わず。
今日の演目は、
「一人芝居・外科室」
だった。
私の好きな小説だ。だから興味があって6時の開始に間に合うように来てみたんだけど、すでに演者の女性は普段店で使われている二人掛けのソファに横たわって、パフォーマンスを始めている気配だった。
少し遅れてしまったことを私は悔やんだ。
 
演者の女性は白い浴衣を着て帯を締め、髪を後ろで一つに結んだのが一房顔の前にこぼれていた。
眉間にしわを寄せているのは胸の痛みをこらえているからだろうか。顔は天を仰ぎ、片手はじっと胸の上にあり、もう片方は物憂げにだらりと寝台
(ソファ。店で使っているソファ。この時点ですでに私にはこの、緑の普段使いのソファが手術室の寝台に見えている。)
から下に垂れている。
演者の女性は固く両目を閉じて、そして顔を観客たちの方にゆっくりと倒すのだが、それは苦痛によって息さえも堪えざるの風情だった。
この女性の苦しみが。
 
「ああ、要りません。止してください。」
と、彼女は言った。ああ、白文に翻案してあるんだな、と私は思う。原文は文語体だから。
 
「何も、嫌いだからいらないというのではありません、必要がないというのです。さあ、どうぞ、このままやっておしまいになってくださいな。私はきっと耐えてみせましょう。」
 
伯爵夫人を演じている女性は、寝台の上でこう述べた、言いながら、いかにも絶え絶え、という様に、その発話は力が無い。
芝居は続いていく。
なんとしても麻酔を使わせまいとする夫人に、御付きの女中や看護師たちがどうにかして説き伏せて麻酔を飲ませようとするのだけど、演者の女性は、自分で言葉を凝らしてそれを拒む。
いよいよとなったら、看護師たちが無理やり押し付けて麻酔を使おうとするのだけど、すると演者の女性は目を閉じたまま顔を横に振って、
「綾!綾!」
と女中に助けを求めた。その後の会話で女中が何とか看護師たちの無理強いを止めた模様。そして、何故そんなに嫌がるのか、と主人をいさめているような会話が、演者の口から吐かれている。
 
こんな悶着が続いているのを見ていながら、(もちろん一人でも悶着しているのだ)
私はジンジャエールの強い泡が口をぴりぴり苛めているのを、意識の中から押し出せずに居た。
 
あんまり旨い芝居じゃない。
 
女中との言い争いが諄々と続いていて、やがて、演者の女性はそれまで固く閉じていた目をしっ、と開くと
渾身の力を振り絞るようにしながら寝台(ソファ)のヘリに両手を掛けて、上体を起こしつつ片手を観客に差し伸べて、突然、
 
「そんなに強いるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密がある。眠り薬はうわごとを言うと申すから、それが怖くてなりませぬ。
どうぞもう、眠らずにお療治できないのなら、もうもう、治らんでいい。よしてください。」
 
白文のままでセリフを吐いた。急にページを捲ったような変容だった。外科室の手術台の上から、貴船伯爵夫人の幽霊が湧きだして、胸の内をそう語るのである。
 
ぞっとした。
これか。と思った、この一言のためだけの、この演目を選んだのか、と私は思ったのだ。この一行を白文で読むためだけの、この日の、この店の、この瞬間。
 
その後演者の女性は意を決した外科医師の手に取りすがって、今度は無言のまま、その手のメスで自分の胸を深々と差して、そのままソファの上に絶命したのだった。
私は氷の入ったコップにジンジャエールを継ぎ足し継ぎ足ししながら、最後に絶命した夫人がゆっくりと立ち上がり、
外科医師と一度、ただ一度の邂逅の日の思いでを語るのを聴いた。
その時になって私はこの芝居のバックに静かなチェロの演奏が掛かっているのに気づく。ごく小さな音だけど、きっと演者の女性がこの演目のために選んだバッググランドミュージックなのだろう。
 
気が付いたらマスターが店の照明を上げていて、浴衣の女性は、原作、翻案、出演を名乗って観ていた私たちに深々と頭を下げたのだった。まばらな拍手のお見送り。
 
「私はね、心に一つ秘密がある。」
私は去っていく女性につられてつい、そう、呟いてしまった。
あの一行を、彼女はどれだけ練習したことだろうか。たった一瞬だけの貴船伯爵夫人に変貌するために。
正直本人も他のセリフはどうだって良かったのだろう。あの一行だけを、どうしても吐きたかったのだろう。胸から、そこに宿る病巣から。
 
「眠り薬はうわごとを言うと申すから、それが怖くてなりませぬ。」
と私はもう一度呟いた。見ると、あんなに強かった炭酸はしっかり腑抜けていて、他の客はそれぞれに食事や飲酒を始めていた。
私一人、白くて冷たい部屋の中に取り残されてしまった。
 
※参考、引用「外科室・海城発電他五篇」泉鏡花作 岩波文庫