両手には本を三冊抱えて、途方に暮れたように不機嫌な顔をしている。感情があまり顔に顕れないソウスケにしてみたら珍しいことだった。
兄が不機嫌な顔をして自分の部屋の中に立っている。
「ソウスケ。なにしてるの。せっかくご飯作ったのに。」
と私は呼びかけた。ソウスケは返事をする代わりに本を床に下して、なんとか床は片付いていたけど、ベッドの上にまだ雑然と本が積み上げられている。ソウスケはそんな本を適当にどかしてベッドに座った。
「どうしたのよ。」
「梓はどうして出て行かないんだ。」
と、ときどきクソヤロウになるこの兄は言うのだ。私はちょっと梓さんが気の毒になった。ほんの、ほんのちょっとだけ、だけど。
「そんな売り言葉に買い言葉で、出て行けなんて言うからでしょう。」
「本人が先に出て行くと言ったんだ。」
ソウスケは眉間に皺を寄せてまた別の本を手に取りながら、ほとんど無意識にページを捲っている。
それはそれは不機嫌なのだ。
「出て行くという奴を止める権利は俺にはない。」
「梓さんのこと好きで結婚したんでしょう。」
と私はドアのところに座り込んで話した。今日の不機嫌は、どうやら近年特に強烈なものらしい。
「その話なら何度もしている。」
私は火に油を注いだみたい。ソウスケがイライラしているのが伝わってくる。
「俺が梓をどう思っているかと梓の自由とは全く無関係なことだ。」
「あなたにはないの? 独占欲みたいなものが、仮にも妻なんだから、もっと、自分の物だと思って大事にしなさいよ。」
と、さっきまで信行に物みたいに大事にされてきた私は言う。誰かの物になっている瞬間は気分がいい。だから私は、信行に会いに行ってしまうのかもしれない。
ただ信行目の前に居ない今その感覚はひどく遠い。
「俺は人間を物だと思って扱うことは無い。」
「前に家具だって言ってたことがあったじゃない。」
「家具は意図を備えた存在だ。俺が梓を家具として扱ったと仮定して、それは俺が梓の有用性を尊重しているからに他ならない。」
とソウスケはいつまでも反論してくる。私は台所に残してきたスパゲティが気になっている。レンジで温めなおさないといけないかな、と思った。
「どうして出て行くって言ったの?」
「こんな生活は耐えられないと言った。」
「私の事で?」
と私は訊いた。ソウスケは、
「それが梓の感受性だ。俺がとやかく言うことではない。おれが何よりお前を重要に思っていることはお前が一番分かっているだろう。」
こんなことを言われると、私は精神の逃げ場が無くなってしまって、ただ頷くしかない。
でも、
「一体あなたは私と梓さんとどっちのことを大切なの。」
とつい言ってしまった。
反目している両親を見て過ごしてきた。ソウスケまで、兄まで同じことをしている姿を、いつまでも見ていたくはない。
兄には妻と仲良く暮らしてほしいのだ、たとえそれを壊しているのが自分だと分かっていても、兄は妻と反発してほしくなんかない。なのに、
「なんだと?」
ソウスケの目の色が明らかに変わる。怒りが。怒りが脳の奥から逆流して虹彩を白く染めたみたいに。
「何故お前にそんなことを言われなくてはいけないんだ。」
怒っている。
私は恐怖で立ち上がった。ソウスケもベッドから立ち揚がったのだった。
私たちは狭い部屋の中でお互いに向き合って立っている。怒っている。ソウスケの怒りが私にしっかりと向かっていた。
「お兄ちゃん。」
私は消えそうな望みを託して呼びかける。
「黙れ。」
と一喝にされた。私は、怒りに震えている、怒りをあらわにしているソウスケに魅入られて、身動きが出来ずに両手で口を覆った。