それで、この男の事を憎んでいたことに思い至られた。
心から憎んでいた。院の上の心はその思いに行き着かれたのだった。
院の上の理性から血の気が引いていく。そして溢れた血潮は嘗て届いたことの無い場所へ、音を立てて迸ろうとしていた。
情熱、と、呼ぶ事のできるものかもしれない。
院の上がついぞ御持ちにならなかったものである、そして、この男が始終それに遊び回った物でもあった。
院の上は、この男を、憎んだ。そして、御自身で思いもかけない事を呟かれる。
「あなたの過ちを誰かが咎めますか?」
「院?」
目の前で慇懃にしてぬかづいている弟は、怪訝に思って顔少し上向けた。
先の斎宮の姫を、帝の後室に融通するとこの男が言うのである。
「まだお小さい帝のことで在られますから、お年上の女御がお側に控えられらのが上策と存じます。
斎宮の姫と致しましても、必ずやお心安くお過ごしの事でしょう。」
と、ぬけぬけとこの男が言うのである。
此で何度目であろうか。院の上の心は水に浸けた布が赤く染まっていく様だった。
先の斎宮を自分の後室に、と持ちかけた、その出鼻の事であった。
いつもこの男が拐っていく。
父の関心も、母の安寧も。自分はこの男の為に殆ど両親から見捨てられ、人心はこの忌ま忌ましい男に集り、帝として善政を勤めた自分は、親族政治だとそしられた。
自分の後室に望んだ女君も尽くこの男が拐っていった。
立太子の折りも、即位の際も。そして今また望んだひとがこの男に拐かされていく。
「日照りが起きたことはあなたの過ちですか?
疫が蔓延るのがあなたの過ちですか?
民が苦しむことは、国が乱れることはあなたの過ちですか?大臣よ。」
「何を仰有るのですか?」
弟は理解出来ない、と顔を挙げたら。
「いいえ、違います。
それらは全て私の過ちなのです。この国のあまねき過ちは全て私の元に返って来るのです。
私はあめつちの境にある全てのものを担ったこの国の柱。
自ら動くことも出来ず、ただ天を背負い地を踏み締めて来たのです。
あなたにそれが出来ますか?
いいえ、出来ないでしょう。
それが私とあなたの違いです。私とあなたは違うのです。
あなたは私が担ったこの国の臣下の只の一人。
その事を、深く考えたことはありますか、大臣よ。」
目の前で弟は顔を真っ白にして黙った。院の上も黙ってそれを見守って居られた。
生涯で只一度のご兄弟のいさかいであった。
院の上お言葉は大変閑かだった。しかし、その恫喝は弟君のもっとも危うい理性を、易々と切り裂いていった。