小説「生きろ。」 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

玉ねぎで遊んでいるその人の後ろ姿を見ながら私が何の不安も無かったかと聞かれれば、甚だ自信は無い。

ただ

「こいつには私の存在は必要ないだろう。」

と思わせるほど、彼は首が座ったころから生きているのが楽しくて仕方がない、と耀く瞳を私に見せた。

 

こいつに私の存在は必要ないだろう。

私はそう思っていた。こんなにもこんなにも、生きていることに喜びを持って一秒の時間を過ごしていることが出来るだろうか。

私は二男の成長を見ていきながらほとんど驚愕していたくらいである。こんなにも喜びのうちに人生を過ごすことが出来るのだろうか。

私の疑心暗鬼を全く意に介さず、そして私の苦悩を全く意に介さず、その人は台所で玉ねぎの皮を剥いて遊んでいる。

時々、きゃー! と感極まった声が聞こえる。当然床には玉ねぎの皮が散乱している。彼には揚げ物の衣が着いたみたいに、細かい欠片まみれになっている。

 

諸々のことをいったい誰が片付けるというのか、他ならない私だ。あーあ。と思いながら、私は床に寝そべって歓喜の声を聴いている。玉ねぎの皮をむくのが嬉しくて仕方ない彼の姿を見つめている。

 

こんな生き方がいつまでも続く筈がない。私はそう確信している。だからこそ

「こいつに私の存在は必要ないだろう。」

と思っていられる今が私の光栄なのである。いつまでもそうはいかない。こいつはやがて遠くに行く。

私の手の届かない遠くに行く。

 

遠く遠くへ行きなさい。そう思って君の名前をハルカと付けた。遠く遠く、遥かかなたまで行きなさい。

そして、生きろ。

私は玉ねぎを弄びながらうれしくてうれしくて仕方がない二男の後ろ姿を、床に寝そべって眺めている。

 

生きろ。

私に出来ることは何もない。君が遠くへ行く頃に、私はおそらく、そう動ける状態ではなくなっている。君にしてあげられることは何もない。君は誰にも頼れない状態から君自身の力で君自身を支えなくてはならない。

それでも生きろ。

私は何も出来ずに床に寝そべっている自分を恥じながら、10年か、20年か、更にずっと続くのか、彼の苦難の人生を悔やんでいる。

 

産んでごめんね。

しかし生きろ。

君自身の身一つに宿った霊に依存して遠く遠く遥か彼方まで行きなさい。そのころ君はきっと私のことを忘れているだろう。

私はこうして床に寝そべったまま、大地と一体化するようにして、やがて君の人生から痕跡を残さずに消えていくのだろう。

 

ともかくは今散らばっている玉ねぎの皮を。