はじめから皺があった。大地のひび割れみたいにありふれていてどこにでもあって、である以上なんともしがたいような皺が、刻まれていた。
その大地の渇きみたいな細かい溝から細い毛のような繊維のよじれのようなものが沸き立ってきて、やがてぐねぐねと太ってお互いに絡み合ってだんだん手に成ったり足になったり腹が出来たり胸が出来たり、真っ黒な髪の毛が生えてきたりして、最後に大地に刻まれたみたいな、その皺の部分がぽんと人の顔になって二本の足でそこに立っていた。
老婆はだいたいそのようにして発生した。
最初から老婆だったわけではなかった。彼女にも若いころ、躍動感に満ちていた時代というものがあった。でもあるポイントからそれは大地に刻まれた皺に吸い込まれてしまって、彼女はそこからもう一度産み落とされるような形で持って、
老婆になったのである。
彼女の躍動的な時代。戦後の何年か彼女はシンガーだった。有名ではないが仕事は有った。戦争に負けて何もかもがアメリカ風に入れ替わっていく時代に、ちょっとした英語の歌が歌える若い女の子には需要があった。
彼女は進駐軍の兵士が入り浸るようなバーやナイトクラブで、だいぶ怪しい発音だが英語の歌を歌っていた。
戦争が始まる前に、彼女はちゃんとした学校に通っていた。女の子が行くには珍しいようなちゃんとした学校だった。
だから彼女には、とりあえずの英語を読んだり聞いたりする知識が、それがネイティブにとっては最低限度のものだったとしても、備わっていた。
そして彼女の歌はそれがサイテイゲンドであるからこそ、進駐軍の兵士にとって大人気であった。
ある晩、仕事が終わってだいぶ経った深夜のある瞬間。
彼女は進駐軍宿舎のある裏道に寝転がって真っ暗な空を眺めていた。真っ暗すぎてよくわからなかったが、空気の匂いが今にも雨が降ってくるぞ、と彼女に囁いていた。
ちょうどいい。いい洗濯になる、と彼女は思った。肩といい腰といい骨が皮を突き破って飛び出してきそうなくらいきしきしと痛んでいた、ずっと長い時間不自然な姿勢を強要されていたからだった。
体のどこという事もなく汚れきっていて、何で汚れているのかもう分からないほど彼女はいろいろなものでべったべたに汚れていた。
そこへ雨の気配である。いい兆候だ。私はもう訳わかんないくくらいねとねとなんだ。ざっと思い切って、激しく、みんな洗い流すように、雨が降ってくれたらどんなにいいだろう。
彼女は不穏な黒い空を見上げてそう願っていた。
願ったりな雨が降ってきた。
彼女は道っぱたに転がったままで、べとべとのドレスを着たままで、折よく降ってきた雨にさんざん漱がれることになった。
爽快な雨だった。彼女は目を閉じた。本当洗い桶の中に居るようだった。ざぶざぶざぶざぶ漱がれていくようだった。それでいて、もう二度と洗い落とすことが出来ないねっとりしたものが体に染みこんだのも感じていた。
こればっかりは洗ったって流れない。
彼女は、ふと、死ということに気が付いた。こんな風に一晩雨に打たれて道に転がっていたら、明日の朝には私は死んでいるだろうか。
分からなかった。ちゃんとした学校に通っていた彼女は体を長時間冷やすことが生命にどれだけの危機をもたらすのかおぼろげな知識があった、おぼろげだけれど。
このまま水に浸かったまま朝を迎えたら。その朝には私は転がったきったない女じゃなくて転がった人の躯になっているだろうか。そんなことを考えて、ばしばし叩いてくるような雨に目を閉じたまま、
彼女は一晩中そこに寝転がって動かなかった。
雨は、上がった。雨が止んだ後は大地は渇いていた。早々に日が昇ってさっきの豪雨の痕跡なんかあってないようなものにしてしまうのだ。
そこには大地の渇きがあった。縦横に刻まれた皺があった。彼女はからからに干からびていた、そして大地の皺になっていた。
そこから毛のような繊維のねじれのようなものがくねくね沸き立ってきて
やがて互いに依れあって腕に成ったり足に成ったり胸になったり腹に成ったりして、最後に黒かみがぼさぼさ生えてきて、遂に大地の皺だった部分がぽんと人の顔になった。
彼女は皺の中から再び生まれ変わった。
そして彼女は老婆になった。英語の歌は、もちろん二度と歌わなかった。