小説「月光」 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

その美しいひとは病み荒んでいた。だいぶ食べた後の生ハムの、股肉の大きな塊のように、腕といわず、胸元といわず、

間違いない。
死神がその得意なナイフで上手いこと削り取っていたんだろう。生気というものが体から順調に抜け出ていこうとした。

彼女の高いヒールの足がダン、と床を踏む様子が繰り返しテレビに写し出される度に私は、
自分の中にも固くもなく柔らかくもなく、ただ重い、形もない存在さえしていない、
ただ重い、まるでその人のヒールが直接撃ち込まれているような、泥を飲んだような気持ちになる。

末期ガンを押して舞台に立ち続けている某大女優の姿が連日報道番組のワンコーナーを飾っていた。

何故私は子供の頃からよく知っていた美しいひとが、病み、枯れて、弱って、死んでいく姿を見ていなくては成らないのだろうかと、赤の他人なのに辛くなる。
番組では彼女の手によるSNSの投稿なども取り上げられているが、文字だけ読めばそれは生を生のまま活ききろうとしている輝き溢れる人の言葉に見える。

だが映像を見てしまったらだめだ。
私は何も人相見ではない。でもはっきりと解る。これはもうヒトのする顔ではない。
表情と言う仮面の下には既に死んだ人間の体がちゃんと準備されているのだ。

だから私は辛くなる。
生きていくのだ。それを思って辛くなる。

やがて、
彼女は死ぬだろう、遠くなく。
ホネニテンイガミツカリマシタ
などと他人事のような投稿も見掛ける。もうだめだ。スイッチはとっくに入っているのだ。

そして、
亡くなられた事実が収束する頃彼女の末期の手記が書籍化されて出版される。
骨をも噛みしだくハイエナのごとき業界関係者がそのタイミングを目を光らせて待っている、ギラリ、と。版権をとるのはおれだ、と。ギラリ、と。


それは間違ったことではない、
悪いことではない、
裁かれる事ではない、
責められる事ではない。そうして生きていく人が居る。それだけなのだ。

あの美しいひとはそのうち亡くなってしまう。その事を飯のたねに生き延びる人が何グループか存在するだろう。

悪いことじゃない、そうして生きていくのだ。

あの美しいひとの死は金に替わる、そしてその金で生きる人がいて、その人がまた金を産み落とし、またそれを拾って誰かが生きる。死は金でひさげる。賄える。

それは間違ったことじゃない。

私はこれを伝搬と捉える。命は金に替わって誰かの命になり、
その誰かが生きて金を落とすことで、また別の命が芽吹くのだ、
かつてこの国を満たしていたと言う泥の中の葦のように。

他人の血が溶けた泥を啜っても私は生きていく。生きるとは雄々しく清々しく死んでいく事だけじゃない、
ハイエナのごとく、そのあとに残るものを骨までしだいて生き延びる。

私はそれを、命の伝搬だと、そう捉えている、テレビ見ながら。