いつの頃からか私は息子を他人だという目で見るようになったので、おそらくはいつの頃からか父も私のことを他人という目で見ていたはずである。
死んでしまった人でもその後をたどるように生きていれば分からなかったことでも分かるものだ。私は時間の流れと、自分が老けていくことと、父が褪せていくことと、息子が生きていくことを、途方もないことだと感じる。
そう感じるだけでもかなりの疲労を私は感じる。
自分の体の一部だと思わなくなってから息子は他人になった。
言い方を変えるなら、彼は人になったのだ。私にとって、彼は一個の個体でありそれが私とどんな関係性を持っているかは、これからの時間が決めることで、彼が昔私の胎内にいたこととはさほど因果を持たない。
と、私は彼に対して思っている。
他人だと思うがこそ、嫌だ、気に入らないと思う面もあるし、反対のことを考えることもある。
つまり
私の息子はなかなかに佳い男である。所謂美男子というやつではない。ただ彼は、なかなか、佳い。
まず姿が佳い。すっと前を見据えてまっすぐに立たせたりするとこれはなかなか絵になるものである。
私は彼のことを他人だと思っているからこそこんな風にも考える。だからおそらく父も私を他人だと思っていたから、私のことを佳い姿だと思っていたのだろう。
父は信頼のおける男だった。もし生まれたときに予言されていたら、私は人生に三人、信頼のおける男に出会うと言われていたことだろう。
一人目が父で、もう一人が夫で、最後が息子である。
この三人だけは一度も私の信頼を裏切ったことがなかった。父に関しては死んでしまったのでもう裏切りようがない。そして夫に関しては私の信頼を蹴っても彼に得るところがないのでおそらく裏切らない。
最後に息子は佳い男なので私を裏切ることはないだろう。
というのは私が息子を信頼しているからなのだ。あれは佳い男だ。親しむべきところと厭うべきところの区別がきちんと身についている。どこから得たものか知らないけれど、聡明に生まれてついて幸運だったろう。得難い才能である。
厭うところ、親しむところを区別できる人間を私は信頼している。そしてこの点で息子はまだ私を裏切っていない。
息子は私と他人になった時からすでに彼の一本道を歩き始めている。一本道を歩いているところがすごいじゃないか。普通はぐねぐねと枝分かれしているものだ。だが彼の道はまだ一本だ。その道を、彼は一人で歩いていく。
あるときは厭うものと一緒に、あるときは親しいものを携えて。得難い能力である。そういうところを信頼すればこそ、私は彼を佳い男だと考える。
私が彼を信頼するのは彼と私が別々の道を歩いていく他人だからである。これがもし体に張り付いた瘡のように嫌でも一緒に歩かなくてはならなかったら、
私の憎しみは、如何ほどだったか。
自分でも想像もつかない。私はもちろん、親という生き物ではない。