馬の目に私は智慧を見る。
知識よりも智慧を見る。
人間は「智慧のある動物」という意味だったか。
いや、「道具を使う猿」だったか。しかし馬の目を見ていると、私はこの動物によっぽど
智慧というものを見つける。
“恐怖は、自分とそっくりなものに抱くのだ。”
今日の人形は本当に怖かったなあ。私は思い返す。それにしてもお人形というのは、
なぜか女の子を象ったものばかりだ。
事前勉強もしたのだが、著名なアンディークドールの工房で作られるのも、
圧倒的に少女のお人形だ。男の子の姿をした人形は、少ない。
でも和人形ならば少しは見かける。しかし和人形の性別を、直感で見分けることは困難だ。
“恐怖は、自分とそっくりなものに抱くのだ。”
どうして人形があんなに怖くおもえるのだろう。私は考える。
人形はこわい。
私は、人形がじっと座っていることが非常にこわい。人形なんだから動くはずがないのに、
動かない人形が私には非常にこわい。
“嫌悪は、手に入らないものに就いて抱く。”
人形を見ていると私は自分の限界を思うのだ。だからこわい。
馬はなんて思慮深い目をしているんだろうな。犬や猫でも構わないけど、でも山羊よりは思慮に満ちた目をしている。
人形を見ていると私は自分の限界を思って頭抱える。
所詮決まったようにしか、言われた通りにしか、動けない考えられない自分の限界を思って頭抱える。
だからこわい。
“嫌悪は、手に入らないものに就いて抱く。”
私は自分が思っているより決まった通りにしか生きられない。それこそ人形といっしょで。
この顔でしか笑えない。この椅子にしか座れない。この服しか着られない。
このひとにしか会うことができない。
人形というのは人である私が持って生まれた限界を
そっくり取り出して標本にしたものだ。
もし私が嫌悪の情を抱くのならば、
私よりも高い閾値で動く、すべてに対してそれをする。私よりも柔軟に、敏捷に、優雅に、鮮やかに見事に素晴らしく、
考え感じ動き生存するすべてのものに、嫌悪の情を抱くのだ。
“親しみを感じる場合に、理由なんてない。”
そして私は目の前の、大きな目をしたいきものに、訳もなく解される。
身体のコリを癒すのと、同じ要領でもって、解される。
私は疲労からくる、
いや恐怖が呼んだ疲労感とそれに伴うしつこい嫌悪を、
理由を伴わない親しみに癒してもらおうとしているけど、
つまりそういうことが出来るのが、智慧というやつなんじゃないだろうか。
馬は目がおおきなだけで一言も言わない、微動だにしない。
おわりです。