しあわせなひとを見たことが無かったし、だからきっとしあわせになるのは大変な苦労なんだろうと思っていて、だったら自分のような怠けものがしあわせになれるはずがないと思っていたから、しあわせになりたいなんて考えたこともなかった。でもそもそもしあわせになるってどういうことなんだろう、とある日迷った。
すると唐突に明晰にシンプルな言葉が、
「それは好きになればいいのさ。」
と私に説いた。
「ライクでもラブでもフェイバリットでもいいのさ。
好むでも愛おしむでも大変気にいるでもなんでもいいのさ。
何か、誰か、何事か、何物をかを、好きになれたら好んで居られたら、それはつまりしあわせになったということなのさ。」
ほう、それはとても簡単なことだなと私は思う。しかしそう諭されても不思議なことに、私には何一つ好ましいものが思いつかない。
それにそれほどしあわせになるのが簡単だとすると、今までしあわせな人に出会ったことがなかったのは、一体どういうわけなんだろうか。
そこでシンプルな言葉はこう言った
「簡単なことさ。誰しも好める誰か、何か、何事か、何物をかを、始終眺めてはいられないからさ。手に取ってはいられないからさ。取り組んでいることができないからさ。一緒にいるわけにいかないからさ。
だって思っても見ろよ世の誰しもが、好ましい、慈しむべき、大好物に明けても暮れてもかかずらわっていたらいったい誰が野菜を作るんだい? 車の部品を組むのだい? パン焼きがまを温めるんだい? 死人の身元を探るんだい? 子供に服を着せるんだい? その服を作るんだい? 長距離トラックを運転するんだい?
だから世の誰しもは、野菜を作っている間、服を縫っている間、誰かの骨とにらめっこしている間、渋滞で立ち往生している間、パン生地こねている間、
大好きな、大切な、くびったけな何か、誰か、何事か、何物かとずっとずっと離れているわけさ。
しあわせでいるはずがない。
でもでなければ世界はちっとも運動しない。歯車を運動させることが出来なくなるのさ。尽く世の人が、自分のしあわせだけ、自分の好ましいものとずっと一緒にいたいと、そんな無闇を願っているとするならね。
君は自分の好ましいものを、税金みたいに供出して、それはモーターを活動させて、世界の歯車を回そうとする。
世界のどこかの誰かの今日の大半のふしあわせを原因にしながら、
世界はいつでも動いているのさ。
ふしあわせは世界の動力なのだ。
万事はそういう仕組みでもって、誰もしあわせになんかなれない仕様になっているのさ。」
なるほど、これはわかり易い。