瀬尾さんからの手紙はそれから時々来るようになった。僕は雑誌を製本する工場のアルバイトを続けていた。出版会社の都合によるのだろうけど、経済誌やファッション誌の受注は目にみえるくらい着実に減っていっている。確実に生産量を維持しているのは水着の女性を表紙につかった雑誌類だった。漫画と、実用的なものと。
僕は瀬尾さんからの手紙が配達されてくる瞬間を見たことが無い。彼女の手紙はいつだって気が付くと郵便受けの中に入っているのだった。週に一回から、少なくとも月に二度ほどは。
『かねてから行ってみたいと思っていた
アロマトリートメントというエステみたいなのに行って来ました。
エステと聞いていたんですが
言ったらすぐに うちはリラックスが目的なので施術とは違うんですよ。
なんて言われました。なにかあったときの言い訳みたいです。
いろいろ頼んで三万円ほどになりました。
結果から言うと、対してしあわせになったとも言えません。
やってもらっている最中は良かったんですけどね。
あるいは私はマッサージに向いていない体質ということなのかもしれないです。
エステの話を始めたらマッサージで終わってしまいました。』
売り文句を信じてリラクゼーションに高い金を使っても
どうも幸せにはならないみたいだ
僕は裏の白い紙にこう書いて、瀬尾さんの手紙と一緒に壁に貼る。ついでに別の紙に
“マッサージ”
と書き、忘れないようにその上から太く大きくバツ印で消した。
あるいはこんな手紙も来た。
『何年も連絡の無かったともだちから近況報告がありました。
高校の同級生なので小田くんは知りません。
彼女は高校のときかなり大変だったんです。
おうちの工場が不渡り出しちゃったり。
それは関係ないにしても部活でいじめにあっちゃったり。
バスケ部だったんだけど、ぜったい誰もパスあげないのに
わざと試合に出したりしてね。そんなこんないろいろなことが重なって
卒業せずに学校を辞めてしまったのでした。
今はイケメンの彼氏と知り合ってめでたく結婚して
お母さんにもなったそうです。
仲良しだったともだちがしあわせになると自分もしあわせになった気持ちにならないでしょうか?』
仲のいい友人がしあわせになったらついでに自分も幸せになれるものだろうか
僕は裏の白い紙にこう書いて、瀬尾さんの手紙と一緒に壁に貼り付けた。そして間違いなく別の紙に、
僕には親しい友人が居ない。親しいかなと思える程度の知り合いも居ない
と書いて最初のメモの下に張る。バツ印の紙のほうに「他人の幸せ」と書いて、またしてもバツで消す。
僕は製本工場でのバイトを週に六日に増やした。収入が増えたのが良かった。僕が自分から収入を増やすのを望んだわけでは無いんだけど。アルバイトが一人辞めてしまって手が足りなくなったのだ。木、金で休みだった日常が木だけの休みになった。それで、以外だったんだけど休みが一日減ったくらい僕にはなんてことないのだった。
ほかにエネルギーを使わないからだろうか。と僕は考える。
エネルギーを掛けすぎなくらい掛けられる何かが見つかったら僕は幸せになれるだろうか
僕はまた裏の白い紙に書いて壁に貼り付けた。だんだん壁が埋まってきたなと思う。
仕事に行く時間が増えたせいか、瀬尾さんの手紙に気付くのが遅れるようになった。郵便受けにはいつの間にか二通か三通手紙が入っていることもあった。どっちがいつ、先に着たのか確認できない。消印はいつも日付のとこだけ割れて読めなくなっている。
『雲海というやつを見てきました。島根県では有名だそうです。
夜気温が低くて湿度が高い日、朝日が昇ると辺りが霧で埋まります。
そういうとき地表にいるんじゃなくて、けっこう大変なんだけど
山に登ってみると、
これは霧が立っているとこよりも高い山に登らないといけないからけっこうなんかじゃなくて
とてもとてもたいへんなんです。しかしきれいでした。
雲の海なんて分かりやすい表現だと思うんだけど。
といっても自分でもっと感じの好い名前、付けられないです。
いっそ全然意味のない関係の無い呼び方してみたらどうでしょう。
瑯琳珠環とか。ろうりんしゅかんです。これは全部宝石に対する褒め言葉です。
宝石を褒めることはなかったでしょう。褒めるのは持ち主だったんでしょう。
きれいな風景を見るとしあわせにならないでしょうか。』
雄大な自然現象を見ていると幸せを感じるものだろうか
僕は裏の白い紙に書く。
『自分の研究の話じゃないんですが。私はまだまだ自分自身の研究をさせてもらえません。アルバイト助手だからです。研究費の予算に組み入れられないのです。
だから教えている学生の話です。卒業論文に取り組んでいたある男の子が、割といい結果を出しました。
培養するのが難しいある細菌について、が研究室のテーマなんですが、
彼は菌床になにを使うかとか温度をどんなふうにするのかについて三年生の時から取り組んで
それ以前の方法よりは早い時間で菌を倍に増やすという成功を導きました。
卒業論文で注目すべき結果を出すなんて、稀有な出来事です。
たいていは先輩がやった実験を、ちょっと角度を変えて検討しなおすくらいのことですからね。
彼の努力は賞賛すべきことです。
こういうのってしあわせを感じませんか?
でも研究成果そのものは教授の名義になっちゃうんです。こういう体質をなんとかしないといけないと思います。』
仕事の関係者が大きな成功をしたら一緒に自分も喜べるのか
そして幸せを感じることができるんだろうか
僕はこう裏の白い紙に書き、続けて矢印から
僕の職場は大きな成功をなしようもない環境だ
と書き加えた。忘れずにバツ印の紙の処に「仕事での成功」と書き、バツを書いて消した。