「秘密の金魚。」
なんとなく口を付いて出てしまった。
「どうしたの?」
瀬尾さんはお腹がすいたおなかがすいたと言って、中ジョッキと一緒に唐揚げをたくさん注文した。
「そういう小説があるんだ。いや、あるっていうか、架空の小説なのかなあ。」
「どういうこと?」
「俺もうろ覚えなんだけど、小説の中でキャラクターが作った小説、ということ。なんか今思い出しちゃったなあ。結局あれ、どういうことだったんだろうって。」
「どんな話?」
瀬尾さんはせっせと唐揚げを口に運んでいる割には、本気で訊きたそうな顔で僕を見ている。器用だ。
「ほとんど分からない。子どもが一人居てね、金魚を大事に飼っているんだって。でもその金魚、絶対に誰にも見せないんだ。」
「どうして?」
「自分で買った金魚だから。」
「へえ。金魚って買うものなんだ。」
買う以外にどうするんだ?
「増えすぎたのを貰うのよ。」
「そう。でね、ただそれだけの物語なんだ。でも何か別の本で続きが語られていてさ。それによると子どもの金魚は実は死んでしまっているんだ。とっくに。でもそれを言ったら、みんながそいつのことをかわいそうだと思うだろ。大事にしている金魚に死なれちゃったって。だから子どもはそのことを誰にも言わずに、金魚を誰にも見せずに居るんだって。」
「どうして今そんなこと思い出したの。」
「いや。何でってことでも。特に脈絡もなく思い出したんだ。それだけだよ。」
「あるよねえ、そういうの。」
あっさりと言う。
「私は仕事柄未来を思い出すって感じかな。」
と瀬尾さんはへんなことを言った。
「未来を思い出すって何?」
「アイディアが湧くのよ。脈絡もなく。日常的に学生の論文用の実験器具そろえているときとか、教授のとってきた資料の整理頼まれたりとか、自分に直接関係ない類の手作業しているときなんかに。
あ、あの実験はこの箇所をこんなふうに変えたらもっと効率がよくなるんじゃないか!
未来で自分がやるべきことが急に降って来るように感じる。」
「それって凄いことなんじゃないのか。」
僕は燗の日本酒を呑みながらイカのキムチ和えを摘んでいたのだが、これはお勧めできない組み合わせだ。唐辛子の利きが燗の温度で膨張し、食べたり呑んだりするほどに舌が疲労してくのが分かる。
「でも意味がないのよ。」
「どうして。」
「すぐ忘れちゃうもの。別な作業しながらだから。ちゃんとね、家に帰って自由な時間が出来たらノートにまとめとこうとは思うのよ。でも一度としてそんなことはない。毎日くたくたになって家に帰って、自宅用のPCを立ち上げる頃には身もこころも真っ白になってるもの。
それが私の研究者としての限界ね。思いつくことは出来るのよ。私はそういうふうに生まれついているんだから。現状のその先にあるものを思考する生き物。
でも、結果を出す人間ではないと思っているの。結果を出す人間はここぞというタイミングをけして逃さない。何故か。センスの違いかしらね。
どんどんどんどんいろんなことを思いつくの。毎日まいにちね。その中の、どのアイディアが本当に大切なのか、私には選べないの。センスがないのね。その点でどうしようもないぼんくらなのね。結果を出す人間は本当に大事なポイントを見逃さない。」
「瀬尾さんが結果出したら幸せなのかな。」
唐辛子で喉がおかしくなっていたから、僕のその時の声も質問した内容もどうもおかしなものになってしまった。
でも瀬尾さんは真面目に答えた。
「うん。そうね。もちろん。論文が評価されるなりどこかの研究チームに採用されるなりしたらとても幸せだと思う。どうしてそんなことを訊くの?」
「俺も結果を出したら幸せになれるのかなと思ったから。」
なんらかの分野で結果を出せば僕は幸せになれるのか
また頭の中で文字に書いてみる。しかしなんらかの分野とはこれまたいかにも曖昧だ。
「小田くんは 今幸せじゃないの?」
「もちろん。だから幸せにでもなろうかと思うんだ。どうしたらいいのか分からないから。」
「小田君は幸せになりたいの?」
瀬尾さんは不思議で仕方が無い、という光る興味を両目に湛えて、それでどうしてか唐揚げを一つくれた。
「幸せになってどうするの?」
「幸せじゃないんだけどさ、だからって死ぬわけじゃないだろ。」
「自殺したらいいんじゃない?」
「そんな気もないんだ。この店を出たとたんに車に轢かれたっていいんだ。でもそんなこと狙ってできないだろ。」
「道路に飛び出したらいいのよ?」
「そんな気になったらね。でもそんな気にならない限り死んだりしないじゃないか。だったら、仕方ないから幸せになる方法でも考えることにしたんだ。」
「どうして?」
瀬尾さんはジョッキを口に持っていこうとしたんだけど、その中はすでに空っぽだった。
「暇なんだよ。暇でしかたないんだ。ほかにやることを思いついたらそっちに専念するさ。でもそうなるまでは、幸せになる方法を考えることしか、することがない。」
「なるほどね。」
よく分かる話ね。と瀬尾さんは言った。運ばれてきた中ジョッキをごくごくと勇ましく呑みくだした。そして、協力したげようか。と言った。
「何を?」
「小田くんが幸せになるのに。」
「どうして?」
「私がなにかと実践して、それで幸せになれたかどうか報告するから。」
ぼくはどうして、と訊いたのは、きっとそういう文脈じゃない。
「私が今までやらなかった分野に挑戦してみて、生活がどんなにか変ったのか、変らなかったのか教えてあげるよ。何か参考になったならレスポンスをくれたらいいな。」
ほとんど作業服そのものになってしまった夜勤明けのおじさん達は、何も言わずにお酒を呑み続けたのだった。
まるで彼らの肉体が一本のパイプで、ここからどこかにアルコールの河を供給することがどうしても必要なのだという具合に。