小説「ルビコン川渡らない」 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

「ばばあ。」
「ばばあ、というと、お母さんのことなのか、お婆さんのことなのか。」
「母親の母親。」
ノリ君の番になったとき、彼は自分のことについてそう言った。
深夜2時を過ぎていた。
きたない酒の回った野郎だけの狭い部屋に居て、僕たちは
‘今殺したい奴がいるとしたら誰だ?’
というここ一番つまらない話題をだらだら続けている。
「ノリ君の場合なんでお婆さんなの?」
「ばかだから。」
ばたんががらがらどすん という音がして玄関の扉が開いて閉じてものがたくさん落ちておそらく持って帰った人間が派手に転んだ。
「下田が帰ってきたか。」
ノリ君は話の途中だったけど、1Kの1メートルしかない廊下に出て行って、回れ右したみたいに瞬時に缶ビールを抱えた姿をみんなに見せた。
「なんで下田が持ってこねえの?」
とこの部屋の持ち主の山本が言った。
「下田のやつ玄関にこけてそのまま寝てやんの。」
確かに僕たちはだいぶ酔っ払っていて、でもまだ酒を充填しきっていない錯覚にこだわっていて、全員でじゃんけんをして最終的に負けた下田に買い出しをやらせたのだった。
「基本的におれの身内はばかばっかりなんだけど、ばばあはとにかくばかなんだよな。
それも笑いようもない、笑いにもならないようなばかだからなおのこと気に入らないんだ。」
ノリ君がごく自然にプルトップを起こしながら話す。
「でも、その割にはノリ君はすげえじゃん。我が校は国立ですよ。」
センター入試ですくなくともまんべんなく点が取れないと話にならない。
「おれは、どういうわけか、ごく一般的な知能です。」
「笑えないばかってなんなんだよ。」
山本が訊く。
「会話ができない。会話というか、もっというと日本語が正しく習得されているか非常に怪しい。」
「え。それは、いささか失礼ながら、お年のことがあるのでは。」
と僕はできるだけ丁寧に発言した。身も知らないどこかのお婆さんの尊厳をどういうわけか守ろうとする自分が居た。
「いや、ばあさん20でおれのオヤジ生んでるから、まだ60ちょいくらいだ。
それにおれが気づいたときには既にその状態だった。つまり、」
ノリ君はビール缶を左手に持って、右手を、百合のつぼみがひらくみたいに、
ぱあっと、僕たちの前に広げて見せた。
「アウトプットしかできないんだ。喋るだけなんだよ。聞けないんだよ。話が。」
「そんなもんおばはんやばあさんには当たり前のことだろう。」
「おれはこと自分の祖母に関してはそこに悪意を感じるから嫌なんだ。
自分の言いたいことしか喋らねえんだよ。
要求しかしてこない。これこれのことをしろ、と。
で出来ません、時間的に金銭的に出来ません、とおれは言う。
ばばあはそのことを理解しないんだよ。
おれだけじゃなく、誰かがそれは出来ない、と言ったとするな。
そしたらばばあのやつ‘停止’しちまうんだよ。Windows98みたいにさ。
こっちの要求が処理できないんだ、頭でさ。でしばらく経つとまた同じことをしゃべりだす。同じ要求を繰り返すようになる。
留まるところを知らない。
殺したくなる。」
泥が浮いているような生臭い部屋の中に、空き缶ががらがら元気よく動いている。
「なあ、このうっとうしい、人類に害を及ぼすだけの存在を消さないのはおれの過失だろうか。」
とノリ君が天井見上げて呟く。
「なんだそれは。ルビコン川気分か。」
山本は文学専攻なのでこういうわかりづらいことを言う。
「ルビコン川?」
「‘ここを渡れば我が破滅、渡らなければ人間世界の不幸。’あれ、逆だったか。まあ要するに歴史上有名な究極の選択だよ。」
「このばばあを殺せば我が破滅。殺さなければ人間世界の不幸。
うん、山本が正しいかどうかは置いとくとして、おれにとっては当てはまるな。」
僕が右手に持っていた酒の缶が急に冷たく感じる。
「当然おれは殺さない。」
「なんでまた。」
と山本が訊いた。
「人間世界の不幸よりもとりあえず我が破滅のほうが重大だ。」
ルビコン川は渡らない。
「まあ、現実的な判断だよな。」
「それに人間世界に対する興味や心配も、自分に対する以上に持っているはずがない。」
そうだ。まったくだ。
と山本が何度も頷き、赤紫になった顔で次の缶ビールを開けようとする。
僕は廊下の向こうを思わず頼ったんだけど、なんという男なのか、下田はぴくりとも動かなかった。