小説「不美人でいる必要がなくなった。」ヒトリ要らず2 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

ほがらかなしこめっていうのは清清しくていいな、
と僕はみわさんに、だいこんの皮をきりぼしだいこんにするやり方を教わりながら、
そんなことを考えた。
そんなことを考えるのはきっと、ほがらかでないしこめを見る機会が多いからだろう。彼女達のせいにするつりはない。しかしすごみの利いたしこめというのは、やっぱりそれを見た人間を圧迫する。
それに「しこめ」という言い方も好きだった。醜女。
ぶさいくよりはこっちの存在価値を認めてくれるように思えて成らない。
みわさんは非常に朗らかなのがとりえの、生粋の醜女である。
「そう。とら君の言うとおりで、ブサイクが自分のことぶさいくだと思っていても、面白いことなんて何にもないものね。」
いつだったかみわさんがそんなことを言った。
自分は“戸田”というのだが、かつぜつが非常に悪いことから聞く人には
「とら。」
と聞こえるみたいだ。
「ぶさいくが自分のぶさいくに拘っていることほど非生産的なものはない!」
みわさんは大きな竹細工のざるの上に、短冊状に切っただいこんの皮を重ならないように並べながら、またそんなことを言った。
「じゃあ、美しいひと自分の美しさに拘っていることは、生産的ですかね。」
僕はそんなことを言った。
「うん、生産的。それは生産的。
ていうか美しい人が自分の美しさに拘らなくなったら、いっそ世界経済が回らなくなるでしょう。」
「世界経済ですか。」
「時代は常に美女のてのうちにあるのよー。玄宗皇帝にライチ買わせた楊貴妃の時代から今に至るまで、変ることなくー。」
みわさんは休むことなく手をつかいながら、歌のように抑揚付けていった。
でも傾国の美女説話って、国家君主の何かあったときのためのいいのがれなんですよね、大部分は捏造なんですよね、と僕が言ったら、
「え、そうなの?」
とら君はいろんなことを知っているねー、とみわさんはやっぱり朗らかに言うのだった。
みわさんはここまで行ってしまったんだから何はばかるところなく、ぶさいくである。
ご本人も承諾ずみなのだからもはや何もはばかるまい。
“全体的に何もない”顔である。
パーツが全部小さいのに対して顔全体が非常に広い。そして均一に ぺったり していて(その平面感は大阪の老舗などでお好み焼きを一度に焼く巨大なプレス器の仕事を連想させる)ほお骨の下から肉が湧いてきてしまうから、
全体的に
「ほぼ何もない顔。」になっているのである。
高校生のとき、塾のテキストに使われた英語のエッセイで
「彼女は総額いくら?」
という題名のものがあった。アメリカの女優、モデルで雑誌やポスターのカバーガールをやっているさる美女について、“写真は大幅に加工されており、加工するにも大規模なメイクによる修正がはいっている”と週刊誌がすっぱ抜いた出来事についての後日談。
当時アメリカ随一の美女は、毎週何十万ドルという費用で
製作されていた存在だった
という分かりやすい現実。ちなみにもともとが何にもない顔の方が、あとからいろいろと付け足していくのに楽チンなのだとエッセイストは語った。
何もない顔の上に、いろいろ足していったら美人が出来上がる。
みわさんはなんにもない顔のままである。朗らかなぶさいくのままである。
それについてみわさんは
だってこのさき自分が美人になる必要なんて無いんだと分かったの
と、言う。この言葉の真意をいつか聞いてみたいと思いつつ、僕とみわさんは今だいこんの皮を干しているのである。
旦那が近所からだいこんをたくさんもらったから、一部を漬物に仕込んだ後なのだった。