「先生山って結局なんなんでしょう。」
「足元にあるものと目の前にあるものじゃないか。」
先生は間を置くことなく返事をしたが、けして適当に応えたんじゃない。
そういうことは先生の専門分野を知っていれば疑う余地もない。
結局、爺さんを最期に小屋役は消滅してしまって、
だがそれから僕は俄然山に採り付かれてしまったのだった。
大学に入り隣県に引っ越したのがきっかけで、
僕は行ける範囲の登れる山を歩き回るのが趣味みたいになった。
果たしてそれを登山というのかトレッキングというのか知らないが、
とりあえず僕は今、そこらじゅうに木が生えてアップダウンに富む場所を先生と歩いている。
先生は僕の大学の準教授をされているが、
学部が異なるので学内での面識はなかった。
が、先生もライフワークからしょっちゅうこういうところをうろついているそうで、
そういうことが僕と先生がお互いを知る縁になったわけである。
「そういえば酒井勝軍が
“ピラミッドは日本が発祥の文化だ”
と言いたかった心はよく分かるなあ。」
「誰ですかそれは。」
僕は背中につけているペットボトルを手探りに引き抜いて、歩きながら水分を補給する。
「そのままの人物だよ。
ピラミッド文化というのは日本に起源を持っていて、そもそもはわが国のように山をもってシンボライズしていたんだけど、
エジプトなどのそれについては当地に高山がないために、
止む終えず石組みで代用した、とだいたいそんなところだ。」
「ああ。よくある売名のぺてんという感じですね。」
「君は若いのに妙に老成した言語を使うね。」
「発生したのが限界集落ですから。しかたありません。」
僕がそんなふうに言うと、ちょっと休もう、と先生は土の上に溜まった落ち葉を足でざざりと均し、腰を下ろした。
「しかし酒井勝軍はともかく、どこの文化でもとにかく上へ上へと目指していくものなんだがね。」
「バカとなんとかは高いところが好きというやつですか。」
先生は旗がなびくみたいに音もなく笑った。
「山は一種の異常だからね。相反克補、対立という概念はわりとオーソドックスなもので、特に分かりやすいのが天と地の関係だ。」
僕も適当な場所に座って聞く態勢であることを示す。
「天である上空と地である土壌は、決定的に隔たっていてしかも相互に影響しあっている。
隔たっていることは重要だ。それは所属がはっきりしている。何が何に属しているのかを明確にすることが出来る。
その点で山というのは異常だ。間違いなく土壌の所属であるのに、天に向かってそそり立っている。隔たっているはずの対立概念を曖昧にしているんだな。
下方に属する地が上空に属する天に挑みかかる。こういうロケーションは昔から人を非常に不安にさせてきたが、
と同時に、強烈な権力志向も起こしうる。
そういう場所だよ。さっきの問い。」
「ああ、山とは、ですね。」
「そう。相反という前提を覆しそうなもの。案外僕たちも、あっちとこっちが曖昧になった妙な場所を、知らずにうろついているのかも。」
と、先生は言葉を切った。切るタイミングはあくまで穏やかだけどその後はどうも穏やかになかった。
常に揺らぐことのない先生の感情が、唐突に傾いだことが顔に出ている。はっきりとだ。なぜなら先生が凝視しているものが僕の背中の向こうにあったからだ。
僕は振り返った。
潅木というのか、藪が正しいか、ざわざわした場所から何か伸びていた。
僕だけでなく先生もそれが何なのかとっさに分からなかった理由は、
それそのものがあまりにも「生き物」に見えたからだろう。
細く長くしなやかなもので、非常に緊張しているのが伝わってくる。
しきりにうねくって居るんだが、それが緩慢と俊敏を使い分けているので鬼気迫るものがある。
と、その生き物は素早く藪に飛び込んで、
次の一瞬で身を翻し、さっきと反対の方向に、今度は身体を顕にしておいて、ぱりぱりと音を立てている。
狩りの獲物で食事にしているんだろう。
「猫だね。」
先生が言った。
「山猫ということですか。」
「愛玩動物が里山に居つくことはよくあるよ。」
先生はそのときやっと、汗を吸った帽子を取って額のあたりを丁寧にぬぐった。