友達と暴力は違うものだと
いつまでもごまかしているのは、何でなんだろうと彼女は考える。
上を向いたら藤棚は茂り、葉の隙間は夜空の星くらいの規模なのにそんな穴からも雨はきっちりと落ちてくる。
事実友達も暴力も同じことをやっている
と彼女はきっちりと気付いているのだけど、
そういうことを国語の教科書で書かないのはなんでなんだろうと考えている。
考えていたら、
思い出した。自分たちがずっとテストされていることを。
そう、テスト。だから教科書には嘘が全部書いてある。
テストをする意味は
その嘘が嘘である根拠と嘘をつく理由、
それを調べることだ。
だから私達は常にたくさん嘘を付かれている。その山盛りの嘘の中から「嘘じゃないこと」を見抜ける人間が現われるのを待っている。待っているのはだれだろうと彼女は思った。
数学のテストでも嘘は行われている。それは私たちが間違った答えを出すことをリードするために。正解することにそれほど意味は無いのだ。
間違った答えを選ぶ子どもが何人いるのかを測ること。
テスト。
でもそれがなんのためにあるのかは彼女には分からない。
興味も無い。
でも友達と暴力がおんなじものだということはとっくに証明されている。
少年漫画のヒーローは
「お前は友達だ。」
と言いながら相手を殴りつける。
そこまであからさまでないにしても、「友達」を使ってともだちを殴ったり蹴ったりすることは誰でもやっている。
どうしてだろうと彼女は考える。
考えているのは興味があるからだ。
藤棚に差し込む灯りは小さな点々で、その向こうに空があることを思わず疑いたくなる。
そして何気なく、
考えたり気にしたりする必要がないからか、と彼女は気付く。
線引きはかならずある。
目に見えなくても計測出来なくても実際に存在していなくても、私が感じているからそのラインは確かにある。
例えばその線を飛越えて、下をくぐり、そして潜り抜けてまた飛越える、
そういうこと。
友達と暴力というのはそういうことなんだと彼女は思う。納得ずくであることをつまらなく思う。
ゴムとびの要領なのだ。
本当だとか嘘だとか、
知ってるとかしらないとか、
好きだとか嫌いだとか、
許すとか許さないとか、
そんなものは境界線をあっちにいったりこっちにいったりしているだけでぴょんぴょん跳ねているのはほかならぬ私だ。
じゃあ私にとって暴力は友達なんだろうか、と彼女は考えた。
考えてみたら、
うん、確かにそうね。
と彼女は納得した。