この高揚感は例えようもない!
足元は軽く空は広い。なんて開放感!
重力が逃げていった夕方の道、心にのしかかって重たく面倒だったものはもう無い。
すべては三分前の過去の中に閉じ込められて、
過去に閉じ込めたものはどうしても私に手出しが出来ないのだ!
こんな沸き立つ心を栄養の足らない、意図して採らないために何年たっても育つ気配のないうすっぺらな胸腺の、さらに下の肋骨の、(これはきっと理科の実験の割れやすいガラスみたいにふてくされているにきまってる)そもそも場違いみたいな心臓がぶくぶくするままに任せて彼女はひたすら快適だった。
空は高く太陽は碧く酸素は匂い立ち自分が素晴らしい人物に思えた。
何がきっかけかというとこのごろ学校でまんびきごっこが流行っていることである。
万引きごっこ。
スーパーやコンビニでおもちゃやガムを万引きしてくるのだ。でもそれはごっこだから、あとでそーっと、分からないようにまたお店に返しに行く。ごっこだから、誰も困らない。上手く万引きして上手に元に返してこれたら、それでこの遊びは大成功。
と、ただそれだけなんだけど学校で流行っているんだから仕方がない。
彼女はそういう遊びに加わるのが無理な質だった。
よくないことだからとかお店の人が困るという感覚は一切なくて、それで、そういう遊びに加われない質だった。
彼女は「下の人間」なんである。
上の人間、中の人間、下の人間と3種類あって、彼女は下の人間なのだった。
一番りっぱなのは上の人間で、中の人間はまあ適当。一番くだらないのが下の人間。そういうことになっていて、そういうことになっている以上彼女はただ納得するしかない。
彼女は納得して、下の人間なのだった。
万引きごっこが流行っているのは上の人間に関してである。
中の人間は上の人間と会話してもいいから、上の人間が首尾よく万引きに成功すると、わが事のように喜ぶのだった。
下の人間は上の人間と会話してはいけないし、上の人間と同じ遊びをしてもいけない。
下の人間は下の人間どうしで遊んでもいけないし、とにかく下の人間は目立ったことを何もしてはいけないのだった。
分数を割り算するときは分子と分母を入れ替えるのと一緒だ。
そうなっているんだから仕方ない。彼女は下の人間であって、もう仕方ない。
分母と分子を入れ替えなかったら分数の割り算は成り立たない。
それと同じで、彼女が上の人間と同じ遊びをしようとしたら、それは学校全体が成り立たないのと同じことなのだった。
だから彼女は毎日下の人間として学校にいて、下の人間として家に帰ってくるのだけど、
もちろん面白いことなんてないのだった。
何一つ面白いことなんてない。毎日。それが毎日。そういうのが毎日。下の人間の毎日。
彼女は3分前にコンビニでグミを万引きした。
お店の外に出たときの高揚感はどうしようもなかった!
私は上の人間とおんなじことをしたんだ!
ねえあなた、下の人間が上の人間と同じ事をしたってどうってことないよ!
世界はひっくりかえらなかった。糸杉は葉っぱを上にして立っている。
銀糸を束ねた雲ははるか頭上に舞っている。
なんていう高揚感! 開放感!
彼女はもちろん声を弾ませて笑おうとした
時、
「君、待ってね。」
両手の圧力で頭とおしりをぺっしゃんこにするみたいに、一瞬もかからずに高揚感は消滅した。
彼女の肩を掴んだのは、優しそうな若いおねえさんだった。
とても優しく微笑んで彼女を見ているんだけど、しっかり掴んだ手を彼女の肩から離す気が無いのは疑いようもなかった、
どんなぼんくらでも分かる。そのおねえさんの目に自分がどう見えているのか。
「ちょっと、お店に入って、お話しようね。」
彼女は地にもぐったみたいに突然何もかもが消えてしまった、自分で見ることが出来なくなってしまった、自分自身を。下の人間だったということさえもうはっきりと思い出せないくらいだった。
強いて言うなら、
確かに上や下はあるにはあるんだけど(人と人間に対して)、
それよりはむしろ厚みと長さを気にかけるべきなんだということを、彼女が覚えてくれたらいいなと思う。
ここは4Dの世界だから。