遠見の池
という名前だけれども
我々人間には手出しできない世界のお話。
巨大な真円の水面に、無数の笹船が漂っている。
風が吹いているわけでもなく、
小さなみどりの船はすいすいふらふらと戸惑うように彷徨うように
水面をひた走り、
今正に、ある船とある船がへさきを触れ合おうとしたところで、
パン、
と石を放ったごとく波紋が現れて、一方の船は慌てふためいて逃げていった。
(ように見える。)
「やれやれ。また弾かれましたなあ。」
こう呟いて、落胆を顕にするのは岩倉主という関東の土地神である。
ここで今、
神様たちが全国の氏子の名札を持ち寄って、
縁造りを試みているところ。笹船には今年妙齢の子ども達の名札が乗っている。
「何が障りましたかな。」
とまた別の土地神が声を上げた。
これは玉川主といって北陸の集落の元締めだ。
「同じことです。男のほうの親が弾き飛ばしたんですよ。」
こう言って憤懣を隠さずにいるのは、松ヶ枝姫という山陽の地主神だった。
そして神様たちはくちぐちに、いけませんなあ、いけませんなと嘆きあうのだった。
実は、
神様たちは昔のころから今も変らず氏子の縁採りに必死なんであるが、
ここ数十年というもの、結ばれる縁の数というのがめっきり減っているのだった。
神様たちはそれを非常に悩ましく思っていた。
何に悩ましく思うかと言うと、縁を妨げている原因にである。
「どうもこの40年ほど、男の母がえらく障りをいたしますな。」
「ええ全く。さっきうまく決まりそうだった男もね、結局母親がいけませなんだ。
ちいと先見してみましたらな、
もし縁付いたとしても、何くれと妻女に悪態ついて、
結局は追い出すという相が出ておりました。」
「ああまたですかな。まことに多いですなあこの十年。
この分だと今年も縁組はなかなか難しそうで、
あ、また弾きましたな。」
こんな会話が交わされている間、笹船と笹船は行きつもどりつしながら
容易に二つ、固まって離れないということにはならないのだった。
「さっきの男はどんな相でした。」
「うん、今度はね、もし縁付いていたら子どもがすこし病気がちにうまれたのですが、
それを何くれと妻女のせいにして苛め抜くと、
そういう相になっておりましたですな。」
「ああまたそんなことを。」
というわけで、神様たちは縁組をどうするかよりも
話し合わなければならない話題が別にあるのです。
遠見の池での検分がはかばかしくない結果になった後、
神様たちは宿舎で“対応”について話し合い出した。
「豊旗どのの処で障りした母親はなんとしましょう。」
「はい。息子の縁を弾いた角で晩年に大病。
子孫がないので療護されることなく、自宅で独死
といったところかと。」
「うん、打倒ですな。」
「では私の処の障りの母親はなんとしましょう。」
「はい。妻女の稼ぎを食いつぶして孫の代の余剰を残さなかった角で
一族と絶縁。死んだ後は墓に入れないようにしておきましょう。」
「うん。よろしいですな。」
神様たちは氏子の縁造りに必死なのである。
だからこそ、息子の母親がせっかく結ばれかけた縁を蹴散らしてしまうことに関して、
リアルにむかつくのである。
だからやられたことにはきっちり落とし前をつける。
「敷島どのの処の障りの母親はなんとしますか。」
「これは嫁をいびり出して離縁させた角で、
孫の手にかかって死ぬのでいいでしょう。」
「ああ、打倒です。打倒です。」
というわけで、縁結びの邪魔をすると
神様からきっちり仕返しをされるのだ。
われわれ人の親としては、
その辺りちゃんと理解しておかないと、
どうやらとんでもない老後をさせられることに
なりそうですね。