清時代の歴史家が、
「砂絵のような。」
と表現したのは絶妙だ。
“その姿は豪奢にして細密。
絢爛にして無常。
途方もない手間と時間、金の賜物。
しかし元は只の砂。
一理もならない川床の砂。
そして風に吹かれて消えて無くなる、
まさしく砂絵の如し”
なのでその女性はたいてい
『砂絵の烈女』、『砂絵皇后』
と呼ばれる。正式な名称はもう伝わっていない。
砂絵皇后は長城の外から来て中原を制圧した
斑朝の皇后だった女性だ。その素性は下候の国から宮殿の下働きに貢がれた、貧貴の娘だったという。
そんな女性が皇帝の正妻に成れるわけがない。
シンデレラストーリーというやつだ。
実を言うと歴史のところどころにシンデレラストーリーは実在する。
しかし御伽噺とはちがうので、
そういう彼女たちはどうしてもやっかみを食らう。だから大方がろくな死にかたをしていない。
砂絵皇后に関しては、入内した理由が既に諸説入り乱れていて何も分かっていない。
あんまり美人だったから皇帝がやられちまったんだとか、歌舞音曲に優れていたとか、皇帝本人がかなりいい加減な男で、妃嬪の小競り合いに一泡ふかせてやろうとした、など全くまちまちである。
しかしいいかげんだからこそ逆に伝説的な史料が残っているのは、
それなりに能力の高い女性だったからだろうか。
数少ない本人の人となりを伺うエピソードの中に、
『女娘考訓』を残さず習得し、人々をおどろかせた賢才
とあるが、女娘考訓なんざ当時の貴婦人のいろはのいなのであって、
それの修了がわざわざ文書でのこっているのは、
相当なめられていたということの方がどうも実態のようだ。
砂絵皇后はうまいこと皇子を生んだ。
それだけなら伝説にはならない。単なる皇帝夫人で終わりだ。
しかし上手いこと正皇后の生んだ皇太子が32歳の熟齢で病没した。
さらに上手いことに某貴妃の生んだ皇子も生来病弱で畸形で、(何らかの障害があったと推測されている)、17歳の時自ら登った松ノ木から転落して死んでしまった。
他の妃妾の子はみんな皇女ばかりで、
つまり砂絵皇后の皇子しか皇太子になれる人物がいなくなってしまったのである。ここまでて充分怪しい。砂絵皇后がなにか画策していたとしても、あながちない話ではない。
さらに皇太子の母は皇后であることが絶対の条件だから、
前途安泰だった息子に死なれた正皇后は抵抗する気力もなくて、
砂絵皇后にその地位をすとんと奪われてしまったのだった。
しかし現実とはややこしいものだ。
即位の後砂絵皇后が下候とは言え外国出身だったことが問題になった。
砂絵皇后の親族が、我こそは皇帝の外戚なり、と言って勝手に諸侯を名乗ってしまったのである。それにつられて国民も我らこそ班国に比肩する貴族よと盛り上がってしまったので、
班皇帝は止む終えず皇后の出身地をあらかた制圧してしまった。
と、ここで砂絵皇后は一挙にその姿をラッキーガールから
烈女
に転じ、あっという間に官僚に根回ししてもともと不真面目な夫を退位させた。
弱冠12歳の皇太子を班皇帝に即位すると、自身は御簾の奥の支配者となって
自分の親族を新たに侯爵として広大な領土を与えた。
もちろんそんな強引なやりくちが気に入らない班国の貴族もいるわけで、
謀反が起こったり、起こったことにして大臣を処刑したり、
国政がごたごたしだしたとたん、
待ってましたのタイミングで漢族の若い王に襲撃され、
班帝国は蹄鉄に食い荒らされるように散々な攻撃を受けて滅亡したのである。
しかし漢王が攻め入ってからの砂絵皇后の動向は
史書の上から突然消えてしまった。
息子の皇帝が自刃し、親族が一網打尽にされていくなか、
彼女に関する記述は国史にも漢人の記録にも何一つ残されていない。
まさに、
砂で描いた美人が嵐の中に解けて本来の姿に戻ったように、
無かったことにしたみたいに、
ふっと、吹かれて消えてしまったのであった。