「近寄らないでください。」
とその人は言った。それから
「目を反らさないで下さい。]
と言った。彼女は続ける
「目を反らさないで。私から。何があっても。
貴方が何処で何をしていても。
何処にいて何をする人物になったとしても、私から目を反らさないで下さい。
貴方の視界から外れてしまったと思ったら、
私はこれから、
1日だって耐えていかれない。」
私と彼女は音楽学校の同窓であったけど、
教養の為に入学した良家の令嬢と
工場の夜勤をしながら死に物狂いだった私とには、
絶対の相違が初めからあった。その絶対はただ絶対何であって、
実は気にしたことなどなかった。
その時まで。私は。
その人と私は蒔かれた土地が違い過ぎる種だったのだ。
そう思っていた。その時まで。深くもなく、だが浅いわけでもなく。
音楽学校の最終学年の時、その人はさる畏れ多い人物との婚約が内定した。
だから私は、わりに親しくしていた同窓の一人として祝辞しようと思っただけなのである、その時、その人に対して。
ただそれだけだったのである。
しかし
「目を反らさないで下さい。」
と彼女は言った。
「近寄らないで。」
でも
「目を反らさないで。」
私の願いは、
貴方の視線の内側にいたいということで、
それ以外を願いません、
それ以外を願ったことはありません、
そして今後願わない日はありません。
夏が急に枯れ落ちたような侘しい八月の夕方に、
私とその人は声楽教室の、
私は入り口に、その人は窓辺に居て、
私はいつまでもいつまでもその人のことを見ていた。そして
絶対に目を反らすことはしない。
と私は言った。その人に掛けた言葉ではなかったかもしれない。
きっと卒業の後、決して光がさすことのない自分の一生に対して、
そう宣言したのだ。私は。
卒業後はその人に一度も逢わない。会えるはずもない。
私は毎日朝、昼、夕、深夜のニュースを必ず点け、
新聞と雑誌に載っているあの人の記事は見つられた限りすべて保存した。
たまに古本屋で見慣れないバックナンバーに出会うと、嘗めるようにページをはぐった。
近頃の彼女はすっかり疲れやつれてしまった。
しかし「立派な立場の女性」という人々方の尊敬がぶれないほどの威好は健在なのだけど、
その絹でできた鎧の下に
「目を反らさないで。」
と訴えたあの日の錐のように哀しい少女が、
まだいると感じられてならない。
だからこそ、私はもう40年彼女からずっと目を反らしていない。
眼球が光を感じなくなったとしても、
けして反らすことはないだろう。